Tuesday, December 17, 2013

C.S.ルイスのこわい話②

『傲慢な人間は、つねにものを、人を見下します。
いうまでもないことですが、何かを下目に見るという姿勢を取るかぎり、自分の上にあるものに気づくことはないでしょう。
というわけで、一つの恐ろしい疑問が起こるのです。
誰が見ても傲慢な人々が、神を信じているとい自称し、自分でも信心ぶかいと思いこんでいることがあります。
これはどういうことでしょう?
それは、彼らが自分の頭でこしらえあげた神を拝んでいるということでしょうか。
彼らは建前としては、自分かこの(想像上の)神の前では虫けらにひとしいとい言いますが、そう言いながらもじつは、神が自分を嘉し、人にはるかにすぐれた者であることを認めておられると考えているのです。
つまり、彼らは形ばかりの、しかも自分だけが思い描いているにすぎぬ、いささか謙遜な思いを神にささげ、その一方、そのように謙遜な自分を他人に比較して、ずしりと重い自負心をそこから引き出しているのです。
キリストが「私について説教し、私の名において悪鬼を追い出した者を、私が世の終わりに〈私はあなたを知らない〉と言うことがあるだろう」と言われたのは、まさにこういう人人のことでしょう。
誰でも、いつなんどき、こうした危険な落とし穴に陥らないとも限らないのです。
C.S.ルイス キリスト教の精髄Ⅲより
人にとって、クリスチャンにとって、これ以上におそろしい事実を私は他に知りません。
世界の終わりにあってキリストに「私はあなたを知らない」と言われるぐらいなら、無礼も無視も干渉も恩着せも威張られることも、全部どうぞ、言った方が得と思う。
このことを忘れないためには、一体どうすればよいのだろう。
〝誰でも、いつなんどき〟とC.S.ルイスは言います。
私にはわかりません。
とにかく自覚のある傲慢な思いや考えや態度や言葉を、そうと気づいた端から、せっせ、せっせと悔い改めるほかなさそうです。
犯すスピードに悔い改めるスピードが追いつくようにと祈りながら。
天国に行くって、実は、けっこうたいへんだ・・・。