神は、罪を知らない方を、
私たちの代わりに罪とされました。
それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
Ⅱコリント5:21
真の献身をしたのち、私たちが持っている空虚は、主によって実体のあるものに変えられなければなりません。私たちの聖さは、主のいのちが分け与えられた結果であり、私たちのうちにある私たちの平安は、主の平安そのものでなければなりません。
私たちは主のもとに、ただからっぽの手、偽りのない手だけを差し出します。
すると主がその手を満たしてくださいます。
絶えずゆだね、絶えず受けるというのが、聖別された心にとっての真の態度となるのです。
悪から完全に分離され、神に献身することによって始まった聖化は、キリストの満ちあふれるさまにまで進み、キリストにあって満ち満ちたたけにまで成長していきます。
そしてついには、私たちの全存在と全生活が神ご自身によって満たされます。
このようにして私たちは受けるための管となり、神の恵みと栄光を反映する媒体となります。
A.B.シンプソン
いのちの君であるあなたは私の泉です
そのあなたを絶えず私のものとさせてください
私の心のうちに湧き出て
永遠に達するまで湧き上がってください
アーメン
本のカバーの折り返しのところにA.B.シンプソンのポートレートが印刷さてれいます。
千円札の人にちょっぴり似ています。
彼のような証を聞いたことがなかったので、この写真をしげしげとながめてみました。
100年前ならどこにでもいそうな、蝶ネクタイとひげのおじさんです。
でも、私の平安が内なる聖霊の平安というくだりだけは、「ああそうなのだったのか・・・」となまなましく読み取ることができました。
今週、確か、月曜日のことでした。
帰りのクルマの中である小さな葛藤が生まれ、そして、イエスさまを選んだ直後に体と心の緊張がみるみるほぐれ、そしてじわ~とうれしい気持ちが心に満ちたのです。
クルマのグローブボックスに、はなの緊急用のチップスが入っていてそれを食べようかどうしようかと思った時です。
私は以前はそんな時、思ったがはやいか、手をのばして袋をやぶってチップスをつまんで口と運ぶのがはやいか、区別がつかないほどに素早く行動に出る本能の人でした。(欲望と行動があまりにも素早く直結しているので大人じゃないみたいだけど、子どもの行動を理解するうえでは役立つのだけどね・・・)
でも!、『悪習慣を断ち切る法』で学んだみことばをカードにして、スピードメーターの前に置いているので、それで、「おっといけない、きたきた、これは敵の誘惑だ。えっとえっとどうするんだっけ、そうそう、これはチャンス、イエスさまを選らぶチャンスだった。これでこの世界、今この瞬間においてはこのチップスを選べば私のうちに神を愛する愛はないことの証明になるんだった・・・・」と脂汗にまみれて葛藤すること5分。
これは長かった。本当に長く感じました。
そして、ついに神さまを選ぶことができたのです。
食べたい気持ちはただの仕事を終えた安堵であって、本当の空腹感がじゃなかった。
食べたい気持ちはただの仕事を終えた安堵であって、本当の空腹感がじゃなかった。
あの時の、平安を私は生涯わすれません。(大げさじゃなくまじめに)