Sunday, May 26, 2013

聖められた生涯~魂の聖め・理解力、美的感覚、愛情

私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。
ただ、この一事に励んでいます。
すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向って進み、
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、
目標を目ざして一心に走っているのです。
ピリピ3:13,14
愛する方よ、私たちの高慢な知性をひれ伏させ、私たちの知恵をイエスの足もとに横たえようではありませんか。
そして自己意識と自己充足のなくなった頭に、聖霊の火のバプテスマを受け入れようではありませんか。
私たちすべてにとってのホーリネスの道は、モリヤの山から始まります。
イサクをささげた祭壇、私らちの心を供え物としてささげたところから始まるのです。
しかもこの同じ栄光に輝く山の上に、すなわち私たちの心が初めてすべてのものを神にささげた地に、荘厳な神殿が建てられるのです。
神はいまもなお、供え物をささげる祭壇の跡にご自分の宮を建てることを喜ばれます。
この時、神は私たちの愛情をもぎ取ることは決してなさいません。
しかし、神は私たちの愛の対象となる、私たちの心のいのちを抜き取る、そして栄養分を不必要に吸収するだけで実を結ばない枝を切り取られるのです。
自分の心をなんらかの対象に結びつける前に、まず初めに神の思いとみこころを学び取り、自分自身を不必要に傷つくことから救う人は幸いです。
あなたの心と愛を、あらゆる禁じられた愛、聖別されていない友情、自己中心な愛情か分離することを望んでいるでしょうか。
主はあらゆる人間関係のうちに、ご自分の御霊を吹き入れてくださるので、私たちは自分自身を入り組んだ多くの境遇および関係に適応させることができるのです。
私たちは聖別された感情をもって、私たちの情緒面でのあらゆる部分をたどる時に、聖くて聖別された用途を持たない愛情ないし情熱は一つもないことを見出すようになるでしょう。
私たちの怒りは純粋になり、神のための聖なる熱心となるでしょう。
競争心はしっとから完全に解放され、他の人のすぐれた資質を真似るようにと私たちを促すことでしょう。
私たちの所有欲は完全に規制されて、貪欲よりもはるかに上まで引き上げられ、最高の賜物だけを熱心に求めるようになるでしょう。
私たちの野心は完全に天的なものになるため、それは他の人々への刺激となり、最も高尚な業績および永続する報いへと私たちを導くでしょう。
A.B.シンプソン
精錬する火よ、私の心をいきめぐり
私のたましいを明るくしてください
あなたのいのちをもって私を満たし
私のすべての部分を聖めてください
私の喜びと悲しみ、望みと恐れの鼓動の一つ一つが、
キリストの心の動きとなりますように
アーメン

A.B.シンプソンの教えはすごすぎて、ついていけないって思いますか?
私は、彼の書いた文章を読むたびにそう思います。
でも、理解しようとがんばるとその日のどこかで必ず「それもそうね」と思えるから不思議です。
今日のところは、とてもドキドキしました。
特に私にとって必要な学びであったと思うのです。
私には、誰かを何かを理解したい欲望がいつもまとわりついています。
でも、本当はその全てが神さまに喜ばれる私の仕事ではないのかもしれないと考えてみました。
そして、美しいもの、素敵な音楽、感動的な映像、きれいな画像、かわいい絵画、素朴な言葉が大好きで、そこに潜んでいる本当の意味を汲み取る前にじゃんじゃん自分の内側に取り込んでしまいます。
でも、本当は、その全てが聖くて、天的(こんな言葉ははじめて聞いたけど)とは限らないと、ざくっと釘をさされた気がします。
そうなのです。
なんだか、ざわざわと気持ちが落ち着かなくってそれで、読むのを途中でやめる本や、聴くのをやめる音楽ってきっとそういうことなのだと思います。