あなたがたのからだを、神に受け入れられる、
聖い、生きた供え物としてささげなさい。
それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
ローマ12:1
単に、あるものから分離するだけではなく、他のものに向って分離する。神が私たちを買い取ってくださったということは、全く真実なことです。
しかし、神は無限なる謙遜のゆえに私たちに明け渡しを強いられず、私たちからの自発的なささげものだけを受け取られるのです。
献身とは、主のものちなるために、愛に押し出されるようにして、自発的に心を明け渡すこと、あるいはみずから進んで心をささへることを意味します。
このような自己放棄が安心してできるという、全き確信が必要となります。
私たちは断崖の上から落ちるのでもなく、自分自身を恐ろしい裁判官にゆだねるのでもありません。
御父の腕の中に身を投げて、無限の相続へと踏み出して行くのです。
献身とは、陶器師の手にすべてを明け渡した粘土のようだと言えます。
陶器師はそれを器から栄光へと形造り、陶器師の必要に粘土が応じられるようにします。
A.B.シンプソン
私の貧しい心を取り
この心があなた以外のすべてのものに対し
永遠に閉じるようにしてください
私の胸に封印をして
この胸があなたの愛の制約を
永遠に秘めておくようにしてください
アーメン
私が、生まれながらのおこりんぼであることは、とても確かなことです。
私が、私のルールでこの世界を見ようとするのは、それは、私が生まれながらにこの世界のルールの中に、『自我に従え』という反対勢力の中の教えの中に漬けこまれてきたからなのだと思う。
罪人であることと、罪の中に生きることは文法的にちょっと違うということについて考えてみました。
罪人だけど、救われたことが誰の目にもはっきりとわかる元罪人になりたい。
ずたずたに引き裂かれた何の意味も持たない、古い契約書を思い浮かべています。