Friday, May 31, 2013

聖められた生涯~責められることがないように

もし、あなたが主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、主の命令に逆らわず、
また、あなたがたも、あなたを治める王も、
あなたがたの神、主のあとに従うなら、それで良い。
Ⅰサムエル13:14
ほとんどの人は、信仰の第一歩を踏み出したのち、一点の雲もない空と鏡のような海を期待してしまいます。
しかし私たちが、主から何かをいただくとしたら、まさに試みられることを予期しなければなりません。
主の臨在の最高のしるしは、敵の反抗に会うということです。
私たちの祝福が現実であればあるほど、私たちはいっそう確実に挑戦されます。
誘惑というものが、私たちの最も深い存在を貫通する力を持っていることと、そして、あたかも私たち自身から出たように思われる悪い思いや感情は、実のところ、悪の扇動者であることを、この際、ぜひ記憶にとどめておきましょう。
私たちの格闘は、主権、力に対するものなのです。
私たちは、悪が私たち自身のうちに住みついていると結論づけるように強いられます。
その結果、私たちは自分が信じていたようには、聖められ、聖別されていないと思うようになります。
この上なく巧妙な姿をとり、徐々にしみ込む感情とまことしやかなほのめかしを伴い、しかもあなたの奥深く秘めた存在から出たと思われるような誘惑に攻撃されたとしても、決して驚いてはなりません。
これらの心の中の悪い考えや悪の暗示は、もし私たちの霊が本当に聖別されているとしたら、それは私たちの霊から生じたものではないというのが真実です。
それは試みる者の声だからです。
私たちはこの試みる者の暗示と私たちの選択を区別し、次のように明言することを学ぶべきです。
「私は悪を受け入れない。同意もしない。私は責任も負わない。私は罪を犯さない。私は罪に対して死んでおり、イエス・キリストによって神に対して生きているのだから」
A.B,シンプソン
あなたにもう一度、祈ります。
私は悪を受け入れません。
同意もしません。
責任も負いません。
私は罪を犯しません。
私は罪に対しては死んでいるからです。
私はイエスさまのおかげで、あなたに向って生きています。
どうか今日一日、キリストの愛にとどまることができますように。
アーメン

A.Bシンプソンの教えを信じますか?
私は信じました。
今日の彼の教えは私には全く新しいものでした。
1844年に生まれて1919年に亡くなった牧師なのに、こんなに新しいなんて・・・。
私たちの格闘は、主権、力に対するものと信じられますか?
私はそんなものに全く興味ないわって言っているそばからじわじわと犯されてきた自分を想像してみました。
神さまと悪魔の闘いだとすれば、それはそうでしょうともと思います。
賢人の汚い部屋、交通渋滞、子どもたちのピアノの練習、増え続ける仕事に対するストレス。
生活のいたるところにばら蒔かれた問題の、そもそもの目的が、力や主権などという高尚なものとは考えてもみませんでした。
だって、マットレスの下の汚い靴下や、ガリガリのご飯をこびりついたバックの中のお弁当箱、気の毒な誰かの事故による交通渋滞、絶対に弾けるようにならない気がしてきた休符から始まるはなの左手、、、、そんなものが力?主権?
でも、今朝、それが神さまと悪魔の闘いであるなら、それはそうでしょうともと心からアーメンといいます。