Wednesday, August 3, 2016

はなはどこ

間違いさがし
 じゃなくて、はなはどこにいるでしょう
いた!

海からの贈物・海水浴

水に入るためのビーチへ
これそまさに海水浴
 はなの肌荒れには海のミネラルか一番
ぴりぴりして痛い・・・
でもヒールされてるかんじするよ、ママ

今日の予定と賢人の決心

★おはよう。
すこ~しづつ、朝が遅くなり、ついに7時起床が普通になってしまいました。
今週、来週と夏休みの最後の2週間、はなが家にいるので、デイ・キャンプなどへの送り迎えもなく生活がどんどんルーズになっております。
魚屋さんにしては派手な看板でしょ
お散歩にでかけたり、カキ氷を作って食べたり、庭で犬のジョエルを洗ったり、夏らしい楽しい日々をすごしています。
今日はパラソルとラグとアンの『海からの贈物』を持ってビーチに行く予定。
★賢人が、魚屋のバイトを辞めることになりました。
2週間後。
もうノートは渡したそうです。
日曜日の午後、礼拝の後教会の友だちと遊ばなくなってから、4ヶ月、本人いわく、「もう限界」。
2歳の賢人です
2歳の男の子のママ、今が黄金だよ
きっと魂の渇きなのね。
19歳の男の子にとっての教会生活って、礼拝そのものよりも兄弟との交わりの方がよっぽど重要かもしれないって、私もやっと気づいてあげることができた。
だから、相談をされた時、「そのことがわかってよかったね。」って言えました。
車も向かえもなければ、バスに乗ってでも教会に行く子の礼拝の目的が友だちに会うこと、っていうのはなかなかヘルシーでいいよね。
追記:そうそう、この2週間前ノーティスを提出して間もなく、例のファイナンシャル・エイドのデパートメントから、話しがまとまりそうなメールが来たようです。
神さまの賢人への備えはいつだって完璧。
完璧な備え、完璧なタイミング。
時間を調整してもらえる仕事先をみつけて、無理したくないって本人が言っていた矢先だったのです。

士師記8章

しかしギデオンは彼らに言った。
「私はあなたがたを治めません。
また、私の息子もあなたがたを治めません。
主があなたがたを治められます。」
士師記8:23
神以外に統一力を持たない12部族だけど、時々あまりの悲惨さに神さまはリーダーを立てて、群れの統一っていうか立て直しっていうか、を図ります。
そこに立たされたのがギデオン。(私、このヒトの名前をレギオンという悪魔と間違えて書いているみたいで、それも悲惨よね、すんません)
7章、おみごと、ミデヤン人を追撃します。
ミデヤン人ってたしかアブラハムと何番目かの妻の子の子孫で、そんでもってモーセはこの人たちと暮らしてチッポラさんという妻をもらったはず。
そして8章の24節にはちらりとイシュマエル人、という文字も見えます。
アラビア人のことだけど、これはサラの奴隷ハガルの子、えっとイサクのお兄ちゃん、っていうかアブラハムの最初の子の子孫・・・。
複雑な因果関係、血縁関係が絡んだまま、でも選びの民の戦いは続きます。

Tuesday, August 2, 2016

士師記5章

聞け、王たちよ。
耳を傾けよ、君主たちよ。
私は主に向かって歌う。
イスラエルの神、主にほめ歌を歌う。
主よ。
あなたがセイルに出て、
エドムの野に進み行かれたとき、
大地は揺れ、天もまた、したたり、
雲は水をしたたされた。
山々は主の前に揺れ動いた。
士師記5:3~5
ヨシュアの死後、カナンの戦いを知らない、新しい世代の約束の地での最初の300年の記録、士師記。
買ったばかりの新品の白いテーブルクロスのしみのように、いただけない状態で残留したカナン人の面倒な後始末です。
やり残した仕事ほど、面倒なことはないってことね。
苦労続きだった勇敢な荒野育ちの世代から交代したのは、豊かな土地で生まれた甘やかされ世代だったのかもしれません。
しかも、神がその指導者だったものだから、見えなくなるとすぐに、隣接の偶像礼拝者と交わり、淫行にふけることは簡単だったのでしょう。
それでもイスラエルを愛してやまない主の圧迫と救助の300年がはじまります。

Monday, August 1, 2016

海からの贈物・アンのことば⑩


●人生の潮は引いて行き、方々に寝室や物置を建て増しして膨れ上がった家は、次第に住人が減り始める。
●そうすれば、生活とか、場所とか、他の人間とか、あるいは環境とか、持ちものとかに対するあの恐ろしいぐらいの執着は、自分や自分の子供たちが無事に暮らせるために努力していた時代ほどは必要であなくなるはずではないだろうか。
●という訳で、中年の夫婦というものはどうかすると、もう役に立たなくなった要塞も同様の貝殻の中に置き去りにされた形になる。
●あるものは、それがもとの自足した日の出貝の世界に戻る機会だと言うかもしれない。
●しかし実際は、あの密閉された世界にもう一度戻って行くことはできない。
あの端正な形をした貝に再び納まるのには、我々の方が余りにも大きく、また多面的になり過ぎたのである。
●この段階に達して、我々は浜辺での生活と同様に、我々の誇りや、見当違いの野心や、仮面や、甲冑を捨てることができるのではないだろうか。
★十分に年を取って子どもを生むことに、あるいは子どもたちの年齢を十分に離しておいて家族を作ることに、リスクではなく、なにかしらのベネフィットがあるとするなら、まさに、この脱力感が免れるということにあると思う。
私たちは、15,6年ぐらは公園通いをしたし、学校への送り迎えをしています。
そうこうするうちに上の子が自分の家族を持つようになれば、脱力する暇もなく、孫など抱けるのかもしません。
そして、牡蠣のような家に再び、赤ちゃんのおもちゃが転がっていることを、夢みてやまないのです。

ヨシュア記24章

もしも主に仕えることが
あなたがたの気にいらないのなら、
川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、
今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、
あなたがたが仕えるようと思うものを、
どれでも、きょう選ぶがよい。
私と私の家とは、
主に仕える。
ヨシュア記24:15
ヨシュアの最後のメッセージです。
ヨシュアは最後の最に偶像からの誘惑を強く警告しました。
カナン人の宗教って、よっぽど強い反抗的な性格か、あるいは純粋な真の神への信頼がある人でなければ、屈してしまう魔性のようなものがあった気がしてなりません。
本当にそう思います。
ずっとずっとずっと、出エジプト記から、神はこればかりをくり返しくり返し、教えているって、きっとそう。
普通に何も考えていなかったら、普通にひっぱられて、普通に信じてしまう、恐ろしい宗教。
犠牲を要求する神々。
今もまだ生きている神々。
お金に仕えさせ、魂の犠牲を求める神。
世間様に仕えさせ、自分を犠牲にさせる神。
食べ物に仕えさせ、健康を犠牲ささげさせる神。
自分を称える音楽に仕えさせ、永遠の渇きを犠牲として喜ぶ神。
恐ろしい現代の神々。
今日でヨシュア記は終りです。
なんだか、ほっとしています。