LOVE...nothing can ever separate us from God's love ROMAN 8:38 /since 2010 なんばまき ohayospurgeon@gmail.com
Thursday, February 6, 2020
Wednesday, February 5, 2020
1ヨハネ 4章
いまだかつて、
だれも神を見た者はありません。
もし私たちが互いに愛し合うなら、
神は私たちのうちにおられ、
神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
1ヨハネ 4:12
てっとり早く、スパイスの効いた深いメッセージに励まされようと、久しぶりにC.H.スポルジョンの「朝ごとに」を開きました。
私は、彼の名前をブログのタイトルに使わせてもらっているにも関わらず、無責任なことにこの小難しい365のメッセージをいまだかつて、通読したことがありません。
今日も、スポルジョンが示す、みことばの一つ前を勝手に選び、勝手にデボーションしてしまいました。
あのモーセでさえ、神さまの声は聞けども、神さまの姿を見たことはないけど、神さまは、いつでもどこでも現れ、見ることができるとヨハネ。
私が、愛しにくい誰かを愛する時、そこに神の愛が現れるとしたら、それは頑張る価値のあることだと思いました。
昨日、佐々木正美の「子どもへのまなざし」をテキストにした、親の学びの会が、テキストが終了ということにひと段落しました。
佐々木正美の中に塊のように存在する神の栄光の輝く本でした。
参加者も、最後は彼についてとても感心を持ってくれました。
それで、この学びの中で、用いたみことばはたった一つだったけど、彼がクリスチャンであることが、彼女たちにとって、とても大きなインパクトを持って、子どもをみるその視点の転換となったと思います。
そのみことばは、「喜ぶ人と共に喜び、悲しむ人と共に悲しみなさい」です。
今朝、神さまは、お弁当を作る私に、「あなたに預けた魂でした」と言いました。
私には、そんな風に聞こえたのです。
たった一つのみことばから始まった学びを、花束のようなたくさんのみことばとそして心からの祈りを持って続けなさい、って励まされた気がしているのです。
★シトラス・ハニー・ミントティーにハマる私は、ついに、ToGoまでしてこれを飲もうと今朝は、作り置いたレモンシロップとお茶を持って幼稚園へ
小さな袋は母の手製
Monday, February 3, 2020
2サムエル 23章
義をもって人を治める者、
神を恐れて治める者は、
太陽の上る朝の光、
雲一つない朝の光のようだ。
雨の後に、
地の若草を照らすようだ。
2サムエル 23:3,4
ドラマ、ドラマ、ドラマ。
次から次へとドラマチックに主人公を演じさせられたダビデを描くサムエル記も、いよいよ終盤です。
ダビデの育ちの良さが、すべての彼の選択の基盤になっていたと思いました。
感情的にも。
男の子にとって、まあ、女の子もそうだけど、十分に愛を受け、自信を持って大きくなることは、幸せになる第一の条件であるだけでなく、素朴に純粋に、ただいるだけで、大きなリダーシップを発揮してしまうという、将来を築いてしまっちゃう可能性があるのだとも思いました。
本人の意思とは関係なく。
上手く、書けません。
簡単に使われすぎて好きなコトバじゃないけど、「カリスマ性」とでもいうのでしょうか。
女の子なら、「華のある人」。
いつの間にか、「若い者」が彼をいつも彼を取り巻き、そして支えていました。
どんなドラマの中にいようとも。
私も、そんなダビデが大すきになりました。
★バスルームの改造の成功に気をよくした私たち夫婦は、次にフロントヤードのフェンスの交換に取り組もうとしている。
古い家を直しながら暮らすとことが、半ば趣味のようになりつつある今日この頃
かなり幸せです
Sunday, February 2, 2020
2サムエル 22章
主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕らえ、
私を大水から引き上げられた。
2サムエル 22:17
私の不信仰は、大水にいたことをうっかり忘れてしまうことです。
捕らえていただいたことに気づかないことです。
引き上げられた、瞬間、まるで、水から上がった猫のように走り出してしまうことです。
ああ、確かに大水の中にいたのでした。
この2年半の私のジンクスに、「誰かがいつも私と口をきかなくなる」というのがあります。
昨年の7月からはこれが、大変にわかりやすく、まるで「お当番制ですか?」と天を見上げて、聞きたくなるほどに、はっきりときっぱりと、そして徹底的にいつも誰かが私と口をきかなくなっていました。
「いました」。
そのことに今朝、気づきました。
厳密に言うと、終わっていないかもしれないけれど、それがそれほど苦痛ではなくなった、と言うことなのかもしれません。
一度、お当番を免除されている唯二の人の一人にこのことを話したら、「いつか終わるよ。テストでしょ。どんな人なのかわかったら終わるよ。」と言われたことを思い出します。
一時的なお休みなのかもしれないけれど、今は、その苦痛から解放されていたのでした。
同じく22章の20節にはこうあります。
「神、その道は完全。
主のみことばは純粋。
主はすべて彼に身を避ける者の盾。」
アーメン。
Saturday, February 1, 2020
Lovable You
父が私を愛されたように、
わたしもあなたがたを愛しました。
わたしの愛の中にとどまりなさい。
ヨハネ 15:9
今朝も通読の後、リズの小さな本を開きました。
通読は、2サムエル記です。
18章を読みました。
最後はこうです。
「わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」
ダビデの、息子の死への嘆きのことばです。
母違いの息子たちのドラマチックな喧嘩から始まったダビデの悲しみの、気もちの落としどろこの無さに、なんとも複雑で弱い人間の心があらわにされています。
そして、リズさんの本から開いたヨハネの15章。
人の子への愛がこれほどまでなら、天の父の愛はどれほどかといえば、リズさんのことばを借りるなら、それは、ゴルゴダの丘に打ち込まれた十字架の盾の木に込められ、大きな釘を受けた、その手に込められ、墓を封じた大きな岩を動かす力に込められた、それ以上のものであると。
あなたの心にその事実を刺し通し、とどめておきなさいと。
辞書を引きながら英語で読んだら、とどまるって、我慢するって意味もあることがわかりました。
新改訳じゃなくて、リズさんのバージョンは aside in My love。
なるほど、と思います。
とどまるって、よくわからないけど、我慢するはよくわかる。
今週も、よく我慢したと思う。我ながら。えへへ。
Subscribe to:
Posts (Atom)