Saturday, February 2, 2019

原点へ

生まれて初めてのコーヒーは
ピアノの先生が入れてくれました
たしか17歳だったと思う
作ってくれるところを、じっと見つめていました
お砂糖もミルクもくれなかったから、
私のコーヒーの好みはこの日以来、超・純粋
しばらく前に、コ・ワーカーがお道具の一式を持参して、
作って飲ませてくれたコーヒーがこの作り方だった
で、とてもおいしいと思った
ここに戻りたいと願い続けてきた
日本製
超・勇気のいるお買い物だったけど
自分へのご褒美です


今日のはなのランチ〜デリのサラダ


親子二代でサラダ好き
私は、今日は寒すぎて無理だったけど、
この人、年中いけるくち
どこ行くのもビーサンだし
身体がいつも冷たいのは遺伝しなかったのよね
よかった・・・


今日のランチ〜さっぱり雑炊

きのこと白菜とチキンの胸肉で
さっぱり雑炊
右端に見える赤いのは
父が漬けた梅干し
あったかくて、素朴で、
おいしかった〜
ごちそうさまでした

灯台守の週末

おはよう。
窓の外の雨音を聴きながら、こんこんと眠り続けていました。
目覚めたら、時計の針はすっかり朝なのに、部屋の中は薄暗く、明かりを灯してお部屋を温め、テーブルに向かって作業をするにはうってつけての土曜日の朝。
家事をするには、ちょっと腰の重い土曜日の朝です。
というわけで、9時をすっかり回ったというのに、まだ、書いています。
今朝、マタイの福音書を読みながら書いた文章をとても気に入っています。
書きながら、自分でも、「ああそいうわけだったんだな・・・」ととても納得しました。
だからと言って、すっぱりと夢をあきらめないのが私の良いところ。(すんません能天気で)
だって、小さいけれど、港町の坂の途中に家を持ち、毎朝、楽しみに読んでいると言ってくれる読者のいる「おはようスポルジョン」があり、そして、通勤往復で30分のおかげで、好きなだけ書けるのだもの。
毎日、少しづつ夢の灯台守に近づいていると思えるから。
そして、だいたい、夢に逃げようとしているその動機が、神さまのお気に召さないことぐらい誰の目にも明らかで、夫にも我が子たちにも、もちろん「おはようスポルジョン」の読者にも、それは全く良い証しではありませんでした。
さて、今日は、たまった家事を片付け、そして、終わったら、ちょっと気晴らししたい気分です。
お給料ももらったばかりだし。
★この大きさで良いのだ
屋根の上に。
小さなデスクが置ければそれでいい。
階段じゃなくてもハシゴでもいい
プールで鍛えているから80になっても90になっても登れる気がするのよね・・・





マタイの福音書 11章

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、
わたしにふさわしい者ではありません。
自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、
わたしのために自分のいのちを失った者は、
それを自分のものとします。
マタイ 11:38
キリストの召命。
純粋に心から信じて、やりたいと願うこと、その願いが天の父なる神の思いであることを
確信した時の爆発するみたいな力や知恵を人は情熱と呼びます。
それが、「自分の十字架」の意味だと思う。
召し、ミッション、さまざまな言い方があるけれど、「夢」とは違うのです。
私の夢と私の召命が同じでないことには、神さまの特別な意図があると思う。
私は、自分の世界で、衣も食も住も神との交わりも完結できるかもしれないといつも夢見ています。
でも、それじゃだめみたい。
だから、神さまは私に、それとは違う特別な召命をくださいました。
私は、それが大すきだったから、夢中で抱きしめて歩んできました。
神さまも、つきっきりで伴走してくださっている。
7章の11節にはこうあります。
「あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」
夢は実現するために神さまから与えられた、もう一つのビジョンだと思う。
ただ、神さまの時というものがあるのよね。
そして、今はまだ、その「時」ではないようです。
だから、ますます熱心に主の召しに励む決心をしたところです。

Friday, February 1, 2019

拾って抱いて、癒された

とても良い日だった。
祈ったとおりの日。
主の愛が私を包んでいた。
私の愛する人たちのことも。
家族と、同労者たちと、子どもたち。
そして、会って話すことのできた、ごくわずかだけど、その家族。
私の感じること、思うこと、考えること。
話すこと、やること、そして聞くことにすら、神様の愛がそれら全てをカバーしてくださっていた。
何だろう、この違い。
先週の恐れと重さ、心配と憂鬱と淋しさとの違い・・・。

ミッション投げ捨てて逃げようとしていた時は、半ば投げているのに、全然軽くならず。
粉々に砕かれ、バラバラにされたそれらをやれやれと拾い集め、抱きしめ直したら、軽くなる。
不文律って、まさにこれね。
投げても重く、拾えば軽い。
主のルールはこの世界の物理学的常識とはちと違った。

マタイの福音書 16章

あなたがたの光を人々の前で輝かせ、
人々があなたがたの良い行いを見て、
天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい
マタイ 5:16
主の御告ー、とはじまる父なる神のことばとは、トーンの違うキリストのことば。
子なる神、救い主、贖い主、聖なる生贄、子羊イエスのことば。

別に、輝きたくなんかない。
私は、ただ、クリスチャンとして、毎朝主と交わり、安全に守られた自分のスペースで、キリストを証ししたい。
写真を撮ったり、偉大なるキリスト者が書いた本を読んで感想を書いたり、日々の感動や葛藤について書き綴りたい。ただそれだけをしながら生きてゆきたい。
それが、私の本当の気もちです。
そろそろ静かに平和に暮らすことの準備を整えさせてほしいです。神さま。とも思います。

同じく5章の45節、読むと必ず思い出す、大すきな歌、『ごはんができたよ』
義なる者の上にも不義なる者の上にも
静かに夜は来る みんなの上にくる
いい人の上にも わるい人の上にも
静かに夜は来る みんなの上にくる

遠くに離れた子どもたちの、『ごはんができたよ』的灯台になりたい。
そして、私は灯台守。(子どもはまだひとり手元にいる・・・)

でも、私、神さまに、大切なミッションをいただいているから、だから、今日もせっせと泳いで、いそいそと車に乗り、そして、逢いにゆく。
子どもたちに、その家族に。
キリストを知る仲間たちに、キリストをまだ知らない仲間たちに。

さあ、金曜日。
もうひとがんばりしましょ。

今日も良い日でありますように。