Saturday, February 2, 2019

マタイの福音書 11章

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、
わたしにふさわしい者ではありません。
自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、
わたしのために自分のいのちを失った者は、
それを自分のものとします。
マタイ 11:38
キリストの召命。
純粋に心から信じて、やりたいと願うこと、その願いが天の父なる神の思いであることを
確信した時の爆発するみたいな力や知恵を人は情熱と呼びます。
それが、「自分の十字架」の意味だと思う。
召し、ミッション、さまざまな言い方があるけれど、「夢」とは違うのです。
私の夢と私の召命が同じでないことには、神さまの特別な意図があると思う。
私は、自分の世界で、衣も食も住も神との交わりも完結できるかもしれないといつも夢見ています。
でも、それじゃだめみたい。
だから、神さまは私に、それとは違う特別な召命をくださいました。
私は、それが大すきだったから、夢中で抱きしめて歩んできました。
神さまも、つきっきりで伴走してくださっている。
7章の11節にはこうあります。
「あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」
夢は実現するために神さまから与えられた、もう一つのビジョンだと思う。
ただ、神さまの時というものがあるのよね。
そして、今はまだ、その「時」ではないようです。
だから、ますます熱心に主の召しに励む決心をしたところです。