自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、
わたしにふさわしい者ではありません。
自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、
わたしのために自分のいのちを失った者は、
それを自分のものとします。
マタイ 11:38
キリストの召命。
純粋に心から信じて、やりたいと願うこと、その願いが天の父なる神の思いであることを
確信した時の爆発するみたいな力や知恵を人は情熱と呼びます。
それが、「自分の十字架」の意味だと思う。
召し、ミッション、さまざまな言い方があるけれど、「夢」とは違うのです。
私の夢と私の召命が同じでないことには、神さまの特別な意図があると思う。
でも、それじゃだめみたい。
だから、神さまは私に、それとは違う特別な召命をくださいました。
私は、それが大すきだったから、夢中で抱きしめて歩んできました。
神さまも、つきっきりで伴走してくださっている。
7章の11節にはこうあります。
「あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」
夢は実現するために神さまから与えられた、もう一つのビジョンだと思う。
ただ、神さまの時というものがあるのよね。
そして、今はまだ、その「時」ではないようです。
だから、ますます熱心に主の召しに励む決心をしたところです。