Wednesday, February 28, 2024

師からの手紙

このひと月あまりの間に私の身に起きた不思議な祝福を
心と頭の中に収め、整理するのにとても時間がかかっていました
その間に受け取った師からの教えを古い順に並べ
自分だけの大切な本にしようと思います
聖書が私の教科書とするなら、
これは、迷った時、わからなくなった時に開く、解説書です

主の平和、

キリストの体のこのエクレシアのためのご奉仕とご協力を何時も有り難う御座います。そして、昨日の神様の素晴らしい祝福を心から感謝します。

さて、その後は、如何でしょうか。さらに、深い、そして、熱い神様のタッチが続いていますか。その霊的感覚を常に維持し、さらに深く、熱く、力強くして行けるようにお祈りとみ言葉をもって、主のみ胸のさらに奥にまで進んで行きましょう。

昨日体験されました、否定できないほど力強い神様のご臨在体験に対する補足説明とその時に現れるーまたは、確認される聖隷の賜物、代表的に異言のたまものについてもう少し、説明したくメール致します。

わたしたちの霊が否定できないほど力強い神様のご臨在で満たされと、わたしたちの肉なる身体がそれに圧倒され、倒れたりする場合があります。

ヨハネの黙示録1:17 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、

何らかの現象や現れに頼る信仰生活は神秘主義になりやすく、さらに強い霊的刺激ばかりを求める霊的現象中毒になりやすい危険性があります。しかし、自分の体験した聖霊の働きやご臨在による自分の体験をみ言葉を土台に識別・分別し、そこから神様にしか与えることのできない、霊的励ましと慰めと力を得ることが出来るならば、私たちの信仰は、霊とみ言葉とにバランスの取れた健全、且つ、健康な信仰としてさらに成長して機能出来るようになります。

神様のご臨在、つまり、神様の霊、そして、イエス・キリストの霊である、“聖霊(御霊)” による満たし、注ぎがわたしたちの内側を満たし、満ち溢れる時に現れるいろいろな現象―しるしがありますが、その中で一番体表的なものが、“異言”です。これは聖霊の与えてくださる “賜物”-プレゼントなので、良いものに決まっているわけですが、教会の中にはこの異言に対する意外と多くの立場や意見があります。が、わたしは聖書を根拠にそれぞれが自分の信仰の中で、判断(識別、分別)すべきであると思います。なぜならば、わたしはこの異言に対するさまざまな反応の背景には、この賜物を求めたが与えられなかった人々の嫉妬と妬み、そして、この賜物に預かった人々の知恵と配慮の欠けた高慢と傲慢な用い方が大きく影響していることを知っているからです。もちろん、より深く探ると神様恵みがわたしたちに届くことを妨げようとする暗闇の力が働いていることは言うまでもないことでしょう。ゆえに、姉妹も今後、人の前で異言の賜物を用いる時は、周りに異言の賜物を求めていたが与えられなかった人々に対する十分なご配慮と心使いをもって用いるようにしましょう。ここでは、わたしたちの預かっている異言の賜物について、聖書はどう言っているのかについて、そして、異言の賜物の持っている霊的有益さについての聖書の教えを根拠にともに学びたいと思います。

その前に、祈る自身がその祈りの内容を知らない異言がどう言う意味があるのかについての事ですが、ヤコブの手紙3章と箴言などに記されているように、わたしたちの舌、言葉は、わたしたちの人生の舵取りのようなものです。ゆえに、神様が姉妹の舌と唇を用い、それをコントロールしようとされることは、神様が姉妹の人生の舵を用いたい、それをわたしに委ねなさいとわたしの人生の舵を求められることであると僕は理解しています。これを念頭に入れておいて、次のことを学んでいきましょう。

1. 異言は、姉妹の霊が、神様と霊的な神秘をダイレクトで語るためのものです。ゆえに、姉妹の魂―知・情・意―もその内容が分かりません。使徒パウロは、異言を用いてのお祈りは、霊による神様との直通の祈りであるがゆえに、暗闇も、わたしたちの魂も、その内容を知ることも、妨げることも、影響することもできないものであることを次のように説明しています。

コリントの信徒への手紙一14:2 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。

コリントの信徒への手紙一 14:14 わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのです。(つまり、わたしたちの魂―知・情・意―の状態に影響されないとの意味)

2.異言による祈りは、姉妹の内に姉妹とともにおられる聖霊が姉妹のためにとりなす、姉妹のための姉妹の内側におられる聖霊ご自身のとりなしでもあります。

ローマの信徒への手紙 8:26 同様に、““霊””も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、““霊””自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。27 人の心を見抜く方は、““霊””の思いが何であるかを知っておられます。““霊””は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

3.それなので、聖書は、わたしたちが、苦しみと悲しみ、寂しさ苦難の中にいるときこそ、理性をもっての、自分の思いや考えや感情や気分によって普通の言葉で作文された祈りばかりではなく、わたしたちの霊が、わたしたちの魂―知・情・意―に影響されず、異言をもって霊そのものが祈ることの大切さについて教えています。ポイントは、魂の祈りと霊による祈りのバランスです。

コリントの信徒への手紙一14:15 では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。

4.異言には、否定的な思いや感情や行動をもたらす、悪しき霊と暗闇の力を追い出す霊的力があります。

マルコによる福音書16:17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。

5.それなので、異言をもって祈ると、心に平安と安息が与えられます。

イザヤ書 28:11 確かに、主はどもる唇と異国の言葉で、この民に語られる。12 主が彼らに言っておかれたことはこうだ。「これこそが安息である。疲れた者に安息を与えよ。これこそ憩いの場だ」と。

6.ですから、聖書は、異言を語ることは、自分の信仰をさらにしっかりしたもの、自分自身を造り上げ、自分の徳を高めることであると強調しています。異言は、種々の賜物の中で唯一、自分自身の有益のために用いられる賜物です。ゆえに、暗闇はこの異言の賜物の活性化や広がりを極力妨げています。

コリントの信徒への手紙一14:4 異言を語る者が自分を造り上げる。(新共同訳)

コリントの信徒への手紙一14:4 異言を話す者は自分の徳を高めます。(新改訳聖書)

7.異言の賜物には、こう言う素晴らしい霊的有益さがあるがゆえに、初めの教会では、礼拝の時に、皆が自由に、異言をもって祈っていました。

コリントの信徒への手紙一14:26 あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。

しかし、その後、教会に対するローマ帝国による厳しい迫害による、礼拝状況、環境の変化により、聖霊に満たされて、様々な霊的賜物を用いての霊的豊かさや霊的深さを満喫する、御霊による真の自由さのある礼拝や祈りが段々難しくなって来ました。そして、時代と生活環境の変化により、決められた時間と環境の中で、求道者も、未信徒も、初心者も、子どもも、大人も、どなたでも参加できる、理解できる、礼拝の形式が主流となってくる中、日曜日の定期礼拝は、事前に決まった形の礼拝が主流になり、さまざまな霊的賜物を用いての霊的豊かさや霊的深さを求め、御霊による真の自由さを求める礼拝とお祈りは、平日の、あるいは、別形の特別集いの形で用いられるようになってきました。しかし、現状は、現代社会の忙しさのゆえに、平日のこう言う集いもだんだん少なくなっています。それなので、各個人の祈りや、こう言うことに対する霊的な一致のあるスモールグループの中で、さまざまな霊的賜物を用いての霊的豊かさや霊的深さを求める御霊による真の自由さを求める集いや祈り会があちこちでほりおこされることを僕は期待しています。

姉妹も、個人的なお祈りの時ごとに、聖霊による満たしと癒しと励ましを経験し味わい楽しみまくって、姉妹から溢れ出る聖霊のご臨在が生ける水の川となって姉妹の周りを潤うそののように変え、アメリカの日系コミュニティを変え、日本を変え、地の果てに至るまで流れて行けるように、異言の賜物を用いて、姉妹の内側を強め、神様とより深いレベルの霊的秘密を共有する神様との霊的親密感と霊的信頼関係と愛をさらに深く味わい楽しんでください。

主に在って、

 

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