今朝、起きて一番に、聖書の通読も祈りもそっちのけで、ライトの下でメガネをかけて必死になってイザヤをめくりました。
でも見つかりません。
それは「隠されていることは、私たちの神、主のものである」という意味のことば。
見つからないけど、でもそれは神さま声のように聞こえたので、それで、夕べ書いた記事を、今朝少し直しました。
感じることは考えることの結果だから、去った理由を考えて分析することは、せっかく去ったマンデーブルーの代わりに他のやっかいを呼び込むことになりかねないと思ったのです。
心の中に、『祈れなかったのに受けた憐みと恵み』という専用のファイルを作って、書こうとしたことをそこに入れました。
『祈れなかったのに受けた憐みと恵み』の不思議さは、いつも神さまの分け隔てというか、分離というか、そんなものと関連していて、理屈ではないことを思い出したのです。
前向きに歩くって、過去の葛藤をすべての人の言動と切り離しておくことと思う。
そして忘れること。
恵みはファイルにあるから、もう忘れももだいじょうぶ。