だいっきらいな教会用語に『つまづく』っていうのがある。
聖書の中に出てくる言葉なのだけど、聖書の中にいない人が聖書の中にいない人を指してこういう神経って一体どんななのって思う。
すねるとか、いじけるとか、とまどうとか、たちどまるとか、かんがえこむとか、あきらめるとか、それはすべて、全人類の一時的な様子と思う。
眠ったり、ご飯を食べたり、遊んだり、働いたりするのと同じ。
それは普通の人生の、あたりまえの一部分と思う。
幼稚園は、すねる子といじける子ととまどう子とたちどまる子とかんがえこむ子とあきらめる子を足したら全部です。
そして、みんな健康。
みんな正常。
教会の中で聞く『つまづく』は、病気のにおいをふりかけられ、ドロップ・アウト的なニュアンスで気の毒がられ、私はその言葉に耐えられない。
すねて、いじけて、とまどって、たちどまって、かんがえこんで、あきらめながら生きたい。
ここは私のお庭。
すねて、いじけて、とまどって、たちどまって、かんがえこんで、そして、あきらめることもあるし、がんばることもあります。
晴れても、曇っても、大雨でも、嵐でも、いろんなことを工夫しながら作物を育てます。
ここは私のお庭。
神さまの昇らせてくださる太陽がなければ、枯れてしまう私の心の奥の小さなスペース。
私がならせたい実をイメージしながら、種をまく畑。
ここは私のお庭。