彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、
またふたりが無学な普通の人であるのを知って驚いたが、
ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかってきた。
使徒 4:13
「もし私たちが公言しているままの信者であるならば、私たちはキリストの写真であり、キリストの生写しでなければならない。
イエスのごとく、あなたは神に勇敢であれ。
愛の精神においてキリストに似た者となれ。
人々があなたについて『彼はイエスと共にいた』と言うためである」
今朝のスポルジョンのメッセージです。読みながら思ったことがあります。
父と母の夫婦の愛や、父の自立した生き方や、母の盲目的な父への信頼は、ただ、それだけで、キリストの証、少なくとも私の目にそう写ります。
神への信頼やキリストへのコミットメントを話して回ることはないけれど、滲むものが証している。
そんな風に思うことは、私に彼らがこれから向かう所への期待に心が明るくなれるから。
昨日図書館で借りた本に、記憶は必ずしも言葉に置き換えられないということが書いてあって、私は、それを読んでとても嬉しかった。
すっかり忘れてしまったように見えても、決してそうではないことがたくさんあるのです。
その証拠に、母は私が言葉ではない方法で伝えたことは、ちゃんと覚えているのです。
私が放った私のメッセージは忘れないのです。
忘れて欲しくても忘れないのです。
だから、思いました。
良いメッセージを放とう。
いつも母に対して良いことを思えば良いのだ!
母はなんでも食べ物を三等分します。
3人で暮らしているからです。
でも、三等分では足りない時も多すぎる時もいつも三等分なのです。
でも、今日は三等分解禁デー!
母は私の心の内を見抜いてしまうから、それを解禁しなければ、先に進めません。
大切なことは量じゃないから。
大切なことは、母が、私を数えてくれていること。
母が私を覚えてくれていることだから。
3人だから、三等分です。
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