Thursday, February 4, 2021

愛の回復とさつまいもケーキ


静かで平和な金曜日の午後です。
朝のお散歩でのお祈りの中で深い悔い改めに導かれ、心からの悔い改めをささげ、とってもすっきりしました。
クリスチャンにとって、悔い改めって、毎日のお通じのよう。
スキップすると、なんか、どっか、気もち悪く、そのうち、不調をきたし、そして、いつか、病気になってしまう可能性のある、欠かすことのできない溜めてはいけない、大切な生活習慣なのでした。
今朝のスポルジョンの学びの中で、「私たちは、御父が御子を、世の救い主として遣わされたのを見、今そのあかしをしています」という1ヨハネのことばを読んで、私は、だんだん、色んなことがあたりまえになってきつつあることに気づきました。
イエスさまの十字架でさえ、そのうちあたりまえになってしまう勢いでどんどん傲慢になっていく自分。
それで、そのことを、歩きながら、ぽつり、ぽつり、と、静かに悔い改め始めたのです。

●昨日の夕方、マーケットで、在庫のチェックをしている店員さんに「お茶はどこですか?」と聞くと、彼女は親切に私をお茶の売っている場所まで案内してくれました。
それなのに、私は親切な店員さんに感謝することができず、心の中で、「どうして、アイルの番号を言わないのだろう。お客をいちいち足早に案内するのは案内される人との歩調もあわず、非効率だ」と思ったのです。
●その後は、キャッシャーで値引きのことを確認しているおばあさんに対しても、「買うか買わないかでしょ、何をそんなに相談することがあるの」と思いました。
●帰ってからは、父に頼まれたショルダーバッグの肩紐を、父が手を出して私から受け取ろうとするのを無視して、私が勝手につけてしまいました。
父のお買い物なのだから、それは父のものだし、私は、頼まれたことだけをすれば良いのに父がすると時間がかかると思ったのです。
●それから、今朝は母が父にお茶の葉について聞いていて、耳の悪い父が聞き返しているのを、私が間に入って勝手に答え、ふたりのコミュニケーションをブツリと切るようなことをしてしまった。

全ては、待てない、みつめられない、見守れない、愛のない行為、愛のなさから来るものでした。
私こそが、ついこの間まで、人一番、何をするにも時間がかかっていたというにも関わらず。
この街の人やこの家の家族に、いつも待ってもらっていた。
話し終わるのを忍耐強く待ってもらった。
何度も聞き返す私につきあってくれた。
それなのに、それなのに。
悔い改めによって愛の気もちが回復した私は、満たされた気もちでさつまいもでケーキを焼き、ひたすらオーブンの前で待ちした。
おかげでおいしいケーキとなりました。

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