Wednesday, February 17, 2021

黒い敷物を受け入れるということ


私は神に言おう。
私を罪ある者となさらないように。
なぜ私と争われるのかを、知らせてください。
ヨブ 10:2

「しばしば愛は、ほたるのように、周囲が暗くならなければ輝きを示さない。
希望は星のようなものである。
繁栄の太陽が輝いている下では見ることができない。
しばしば患難は黒い敷物のようであり、神はその子供たちの徳の宝石をますます輝かせるため、その上に置かれるのである。
主にある友よ、なぜあなたが患難の中を通っているかおわかりであろう。
主はあなたの恵みを捜し出し、それを成長させておられるのではないか。
これこそ主があなたと争われる理由ではないか。」
今朝のスポルジョンのメッセージです。
前にスポルジョンのこのメッセージを読んだ時には、彼が言いたいことがよくわかっていなかった。
黒い敷物という患難の上に私たちを置き、輝きはじめるのを見つめて待つ、神さまのその趣味は、あまり好きじゃないないと思った。
でも、そうじゃないのよね。
輝いて一番うれしいのは、輝いている宝石自身であり、その影響を受けて輝く周囲の宝石なのです。
そしてそもそも、その黒い敷物は神さまのバックから取り出されたものではなかったのです。
ヨブ記の最初に出てくるもうひとりの重要なキャラクターのアイディアだった。
この前、図書館で借りた本で、日野原重明が書いた「愛とゆるし」という、数ある著書の中でも、教会の説教で用いた原稿をもとに作られた本の中に、私たちは死を抱えて生まれてきて、毎日、死に向かって生きているというような文章を見つけました。
あたりまえのことなのだけど、彼という人がそれを書くと、特別な意味を持って、私の心を打つのです。
それは、彼が世界に教えた生き方があまりにも「黒い敷物」を静かに肯定していたからなのだと思う。
それは、最初の人が初めてしまった自明の摂理。
でも、2番めの人がそれに勝利したという確信。
私は、黒い敷物の上で輝きたいです。
自分でも知らなかった自分の中の輝きを輝かせたいです。

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