おはよう。
今朝、目が覚めたその時、夕べここに書いた『埋もれている夢を掘り出す21日間 Day5 Fogiving the Unforgivable②』 の最後の自分自身の一言を思いました。
そして、ああ、そうだったんだ、私はそれが嫌で時々妙に苦しくて、そしてそれにとても長いこと耐えていたんだなって思いました。
長い時間、遠くから聞こえ続ける騒音と同じで、音がなくなって、はじめて、本当の静けさを思い出すように、私は今朝、自分がもうそこにいないことに気づきました。
あまりにでも巧妙にカモフラージュされた鈍い痛みだったし、いつ始まったのかも思い出せないほどに長い間そんな感じだったから、そんなものは幻想と思えば思えるけど、でも、あるし。
どうして、『ある』と自覚できるかっていうと、神さまに近づこうと祈るときに、それがいつも、じゃまくさく、そこに転がっていた。
本当は全然好きじゃない、ただ場所を埋めるためにつっこまれたお弁当箱のプチトマトのようにそこにあり、そして、それはいつも食べ残され、あたりまえのように捨てていた。
入れたのは私。
食べなかったのは私。
捨てるのも私。
心の隙間に入れていたのは、赦せない思い。
でもそれは私の中の聖霊さまとは調和しない思い。
だから、いつも捨てて、でもまた、お弁当箱に隙間ができると、仕方なく、つっこんでいた。
テンポラリーでお弁当箱がぎっちりになって、崩れなくなくなるっていうただそれだけのために。
でも、もういれなくてもいいってわかった。
今朝、目が覚めたその時、自分が書いた言葉を思って、泣きそうになりながら、神さまに感謝しました。