Tuesday, October 8, 2013

埋もれている夢を掘り出す21日間 Day5 Fogiving the Unforgivble

主があなたを赦してくださったように、
あなたがたもそうしなさい。
コロサイ3:13
だれかが私たちを不当に苦しめ、謝りもせず、悔い改めることもなく去って行けば、私たちは傷つきます。
傷は心の中でわだかまり、恨みと化します。
それは思いや行動を毒し、私たちを不機嫌でみじめな人間にしていくのです。
このような負の悪循環に終止符を打つ方法は一つしかありません。
それは赦すことです。
赦すとは、されたこと自体は不当であるにもかかわらず、赦す側の人が、痛みをあえて手放すということです。
相手を赦すとうことは、相手の行為が不適切で、どこから見ても間違っていると十分に承知した上で、償いをするのは当然だ、と思う感情を捨て去ることです。
自分の感情とエネルギーを報復に向けるか、解決に向けるか、選択は常に私たちに与えられているのです。
極めて有害なもうひとつの方法―仕返しを考えるほうが、赦すよりも魅力的で、変に力がわいてくることは私も知っています。
自分は被害者なのだと思えて、奇妙なことに、心が満足するのです。
けれど、一つだけ問題があります。
それは被害者は自由ではないということです。
赦すとは、相手の行為が引き起こした痛みを無視したり、否認したりすることではありません。
自分の受けた傷を否定することでも、正義を要求しないことでも、責任を免れることでもありません。
相手が無実だから、ましてや、自分が赦したいから赦すのでもありません。
私たちの人生が相手の行動や行為によってこれ以上コントロールされたり、影響をされないために赦しを選ぶのです。
スー・オーガスティアン
あまりにも、インパクトのある大きなテーマでたくさんの新しい情報なので、半分づつにしました。
今まで信じていた「赦し」とここにある「赦し」に大きなギャップがあるのは私も同じです。
だから、少しだけ、時間をおいて続きを書きます。
では、今日も良い日でありますように。