イエスは答えられた。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。
神のわざがこの人に現れるためです。」
ヨハネ 9:3
今朝、取り継がれたみことばです。
大すきなヨハネの9章3節でした。
安全地帯から偉そうに問題を分析的にとらえ、原因を追求し、関係者をつきとめて、そこに責任を負わせる人と、そんなこと、全く気にせず、ただただ、問題解決に向かって動く人がいるとするなら、私は、いつも後者でいたいと思います。
こんな罪人の頭、悪魔の忘れ物のような、愛せない、汚れた心と、ちっぽけな信仰な私が言うのもなんなんだけど、そこにだけは、大きなこだわりがある。
良い人には憧れないけど、問題を解決する人には、絶大な憧れがある。
聖なる人のきよらかできれいなビフォー・アフターの証にはぜんっぜん興味ないけど、罪人が大きな問題を突破して善人を助けた話、超・すき。
私がイエスさまについて行きたい理由は、そこだから。イエスさまは、それで十分と言ってくれるかな。
愛せなくても、心汚れていても、信仰ちっぽけでも、それで十分と言ってくれるかな。
過去でも未来でもなく、永遠という時の中に唯一影響できる現在という時間の中で、目の前にある問題に取り組みたい。
その結果として、それが神のみわざであると、誰かが気づいてくれたなら、それこそが御霊の実なんじゃないかな。
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