Saturday, May 30, 2020

始まりの気もち

私はいつも、
自分の前に主を見ていた。
主は、私が動かされないように、
私の右におられるからである。
それゆえ、私の心は楽しみ、
私の舌は大いに喜んだ。
さらに私の肉体も望みの中に安らう。
使徒 2:25,26

連続で2回読んだ、ヨハネの福音書が終わり、今朝から使徒の働き。
ルカの記述の中のダビデのことばです。
Before コロナの通読(コロナを境に通読が中断し、スー・オーガスティンが示す励ましの
みことばばかりを貪った時期がありました。ご存知ですよね。)でサムエル記を読みながら、サウルの自己像の低さとダビデの育ちの良さのコントラスをはっきりと感じ、それについてせっせと書いていました。
そして、今、再びJoel Osteen の本に学びながら、本当にそれはとても大切だと実感しています。
今朝の彼のメッセージにもありました。
「私たちは決して、私たちの価値を失うことはない。
銀河宇宙を広げた神の定めた私たちの価値を、誰をもってしても奪うことはできない。
この真理を父なる神から奪える者はいない」
力づよいメッセージでした。
この真理を努力せずに簡単に理解する方法があるとするなら、それは、「幸せな幼少期をすごすこと」の一点にあると思う。
尊いと言ってくださる父なる神との出会いは、それがたとえいくつであったとしても、決して遅くはないのでしょう。
だって、永遠の中に存在するという真理とセットでやってくるわけだから。
でも、私は、小さな子ども期に、このことを、理屈じゃなくて、「わかる」よう、すりこむことのプロになりたい。
そうだった。
始まりは、そんな気もちだったんだ。