Wednesday, March 11, 2020

朝ごとに 3•11

罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、
罪によって明らかにされ、
戒めによって、極度に罪深いものとなりました。
ローマ 8:13
罪を軽く考えてはならない。
若い信者には聖い臆病さがあり、神のみこころを痛めまいとする敬虔な恐れがある。
しかし、それからすぐに、これらの信仰の芽は、成長し柳のようになり、風のまにまにゆらゆらと揺れ、すぐに妥協してしまいそうになる。
人はだんだんと罪に慣れる。
大砲の音に慣れた耳に、小さな音は気にならない。
「私たちは公然と罪を犯したわけではない。なるほど多少の過ちはあった。しかし大体正しかった。」とずるい推測を下すようになる。
こうして私たちは罪を弁解する。
罪に衣服を着せてそれをおおう。
罪を美しい名で呼ぶ。
主にある友よ。
罪を軽視しないように注意せよ。
罪は贖い主にいばらの冠をかぶせ、主の心臓を刺し通したではないか。
すべての罪を、救い主を十字架につけたもうものとして見よ。
C.H.スポルジョン「朝ごとに」3月11日
するどいメッセージにずっきゅう〜んと胸を撃ち抜かれた思いです。
「信仰の芽は、成長し柳のようになり、風のままにゆらゆらと揺れ、すぐに妥協してしまいそうになる」とは、他の誰のことでもなく、まさに私のこと、私そのものです。
罪に敏感だった感性は、くり返し赦されることによって、麻痺してしまい、やがて、悔い改めとセットでずるをするようにさえなってゆく。
これは信仰のおばさん化だ。
私は自分が今朝、とっても恥ずかしいです。
最近、トイレットペーパーを山のように買い占めました。
私のような人がいるから、グローサリーストアの棚からトイレットペーパーがなくなるのだと、その山を見るたびに悲しい後悔に襲われます。