まことにわが家は、
このように神とともにある
2サムエル 23:5
今朝のスポルジョンが私に示すみことばは、この2サムエルの23章5節であるのに、私は、それを探せず、22節の5節の中から一生懸命にこのことばを探そうとしました。
「死の波は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。
よみのつなは私と取り囲み、死のわなは私に立ち向かった。
私は苦しみの中に主を求め、わが神に叫んだ。
主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは御耳に届いた。」
でも私はこのみことばに大いに励まされ、そして23章の5節にそのとどめを刺されました。
父の医師から、肺への転移と手術の中止の話を聞いた夜、私はまさに、この23章5節の前半の状態でした。
そして主は私の叫びも聞かれた。
父の図書から借りた日野原重明の「生き方上手」の中にこんなことばを見つけました。
「死は生の一部であり、必然であり、どうにも逃れることはできません。
この世に生まれた瞬間が、私たちの死への第一歩なのです。
死が遠い近いにかかわらず、誰もがつねに、同じ重大さをもって、同じ問いを投げかけられているのです。」
この文章に触れられた瞬間、問題は医師のことばから神の愛する父へ、父から私自身へと移行し、そして命の源であられるキリストに移行されました。
うまく書けないけれど、命も時間も全てキリストのものであるから、そこに信頼して感謝が始まったのです。
今朝は、いよいよ父の退院です。
私は私の命の時間という砂時計の砂を父の砂と混ぜて、一緒に落ちてゆきます。
そして、それはさせてもらえることが、今、とってもうれしいのです。
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