神は、みこころのままに、
あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、
事を行わせてくださるのです。
すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。
ピリピ 2:13,14
聖書の創世記の3章11節から13節、これが責任転嫁の始まりです。
以来、人々は責任転嫁合戦を続け、お互いを非難し、自分の考えや感情や行動に責任を取らずにきました。
それによって、過去の傷を越えて進んでいく力が奪われていることを自覚していないのです。
「不満」や「非難」という巧妙なワナに陥り、内なる力を放棄してしまったのかもしれません。
今こそ、毒素の強いこの二つの習慣をやめ、自分が何を感じ、どう反応するか、何に目を向けていくかに対して責任を持ち、内なる力を取り戻すときです。
再出発に必要なのは、この内なる力なのです。
人のせいにしたり、不満を言いたくなったとき、その誘惑に負けるなら、それがどんなことであれ、自らの力を手放すことになります。
直面している困難ではなく、あなたに差し出されている機会をじっくり考えてみてください。
いつも私の側にいる2人の天使 |
私たちが同意しない限り、何一つ、私たちを幸せにしたり、悲しくさせたりすることはできません。
何が起こっても、最終的にどう対処するかは、私たち次第です。
それはいつでも選択するものなのです。
不機嫌や怒り、落ち込みやイライラで、良くない対応をしていることに気づいたときは、自分の行動に責任を取るよりも、だれかのせいにしたい誘惑にかられます。
そして、その対象はすぐに見つかります。
ですが、だれかのせいにするなら、あなたはその相手に縛られたままです。
自分で責任を取れば本当の意味で自由になれるのです。
スー・オーガスティンの『過去の傷がいやされるとき〜埋もれている夢を掘り出す21日間』より
内なる力と書いて、聖霊と読みます。
私はそう読みました。
聖霊の働きをじゃまするものは聖霊の悲しみなのでしょう。
私たちの内には霊があります。
その霊は、創世にはじめに水の上を動いていた神の霊なのです。
神の霊は、はやり神であって、聖なる霊なので、私の内にある、神と調和しないものとは決して共に働けないのでした。
でも、神の好みの幅はとても広い。私はそう信じています。
映画でも本でも、観る読む私がそこに神の御栄光を感じ、神を褒めたたえるなら、暴力シーンが一杯のアクアション映画も、この世のラブ・ストーリーでも、神さまは私と共にそれに感動してくださるし、日本やアメリカの楽しい行事、例えば豆まきやお雛祭りやハロウィンにも共にいて喜んで参加してくださる、悪いものからも守ってくださる。私はそう思うのです。
だから、私たちが手放すべき部分は、全然微妙なんかではなく、誰が見ても白黒はっきりわかる何かなのです。
そして、それを見せてくれるのも、教えてくれるのも、結局聖霊でしかない、と思う。
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