Sunday, November 20, 2022

マグダラのマリア


たっぷりと眠りました。
そして、気が散りそうな全てのことを片付け、椅子に座り、気が済むまで聖書を読みました。
通読のエレミアの30章ととルツさんが示してくれた詩篇の19篇、そして、2021年11月21日の藤本満牧師のメッセージからヨハネの福音書の20章を読みました。
なにしろ1年前のメッセージなので(先週の続きの2022年の11月13日のはまだアップロードされていなかったのです)何度か聞いてしまっていたのだけれど、それでも、聖日に背を伸ばして、神の声として祈りながら聞くなら、それは、本当に本当に新鮮でそして大きく衝撃的なメッセージとなることを知りました。
少し、シェアさせてください。
主人公はマグダラのマリアです。
イエスに七つの霊を追い出してもらい、癒されたマグダラのマリア。
逃げもせず、隠れももせず、十字架の証人となったマグダラのマリア。
復活の朝、からっぽのお墓を見て、弟子たちは帰って行ったのに、ひとりそこに残りイエスに逢ってしまうマグダラのマリア。
感情的で泣き虫のマリア。(これは牧師のコトバではなく私の主観)
お墓の中で、「マリア」とイエスさまに名を呼ばれ、我に返ったマリア。
でも、私が今朝、大きく衝撃を受けたのは、このマグダラのマリアの信仰ではありません。
メッセージの終わりの、結びの、牧師の、「私たちは、主に名を呼ばれてさえ、気づかないことがあります。でも、幸い、私たちの教会にはたくさんのマグダラのマリアがいます。」ということば。
そして、頭が殴られるような衝撃と共に知ったのです。
私の教会にもあるひとりのマグダラのマリアがいたという絶対的な事実。
そして、彼女は、もう、いないという決定的な事実。
確かに彼女はマグダラのマリアのようなひとでした。
イエスにたくさん癒され、だから、どんな時もイエスから離れなかった。
そのマグダラのマリアに、私は、いったい、なんということをしてしまったのだろう。
十字架という文字を漢字でノートに書くたびに彼女の名を思い出します。

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