Wednesday, July 17, 2013

分かれ道

たくさんの人が雇われていて、仕事がみごとに分担されていて、働く個人や子を送る親の意見や主張のひとつひとつが学校作りに反映される教育現場とは、みんなが集まるのに、膨大なお金がかかって、何かをひとつに決定するために話し合うのに、膨大な時間がかかって、そんなことはものすごく無駄と私は思う。
(私がちょこっと体験した日本語学校はそんな学校だった。そして、この夏ちょこっと様子を見に行った幼稚園ももそんな学校の中にあった)
親が払う保育料、授業料は、そんなことよりも、そもそも、学校によって最初から決定されているゴール、教育理念に向って、よりよい環境、体験、人材、教材のために支払われるべきと思う。
私は有無を言わさぬ長が確固たるポリシーを持って群れを率いる小さな幼稚園に3年いて、それはそれは全てが合理的と関心するばかりです。
そこにはどこにも、何の無駄もありません。
そして、その無駄のなさは余すところなく、子と親に還元されています。
どんなふうにかと言うと子と親の「満足」にです。
このことを知らずに膨大なお金と時間とを雇用者に支払い、その支払いをさせられている保護者たちがたくさんいる。
無駄のない学校とは、働く人間にとっては時間的、体力的、精神的に、もしかしたら厳しい環境かもしれない。
でもそれとひきかえに、受けるものは大きい。
お金でもなく、時間でもなく天国的に大きいと思う。
子どもと親の幸せを作った報いは、神さまから直接にやってくる。
それと反対の民主的学校で働くってどんな良い点があるのだろう。
両方の良さを合わせ待つ学校など、存在するだろうか?
私は今、それを天秤にのせて、いろんなことを考えています・・・。