義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。
善を行なう人はいない。ひとりもいない。
ローマ3:10~12
家庭を確立し、家庭生活をなし、子どもたちを教育し、リクリエーションを楽しみ、社会生活をいとなみ、両親として、隣人として、市民として、教会員として、責任を引き受けるといったゴール―に向って努力しているという点において、クリスチャンと非クリスチャンと少しも異なっていないように思われるのは、不思議ではありません。人間の内的生活は、美しいものではありません。
上品で、十分な栄養をとり、情緒的にも安定し、親愛感にあふれた人々ですら、内的に幸福を探求して見出さなければ、あわれな状態にあります。
長年のカウンセラーとしての経験からわかったことは、心の平安を得ようとして苦闘しているクリスチャンが、口では信仰を表明していても、それをほんとうに理解せず、あるいはそれを生活の上に実践していないということです。
私たちの時代のはなやかさの背後に、思慮深い人たちは、不安―それは、活動をやめて静かになるとともに現われてきます―からのがれる道を求めている大衆を見ているのです。
私たちクリスチャンにとって重要なことは、この気違いじみたメリーゴーランドから降りて、人間とは何か、人間は何を必要としているかを考えてみることです。
人間のジレンマの解決は、環境の気まぐれを一時しのぎにごまかすことによってえられるのではなく、むしろ誠実に神の方に向き、からの手をさし出して、健全に人生を歩む内的な力を受けることによってえられるのです。
私たちはみな、クリスチャンでなくても模範的な生活をしている人々を知っています。
そしてクリスチャンであると称しながら、不幸であり、失敗続きであり、利己的であり、不正直である人々を知っています。
人が自らをよくするために、キリストによりたのんでいるか、あるいは自分自身の最上の努力によりたのんでいるかは、外部からはわかりません。
人はりっぱな演出をすることができます。
しかし、そのような演出をしている者の心は、その者を責めています。
キリストのみが、心を一変させることがおできになるのです。
ブラント&ダウディ
私は、おおむね、考えられる限り、最大限に正しいノンクリスチャンと共に働いています。
そして、おおむね、考えられる限り、最大限に正しいノンクリスチャンとの夫と共に家庭生活を運営しています。
彼らは私の目に、おおむね幸せそうに見えます。
私は、おおよそ、考えられる限り、どのクリスチャンよりも、心の中にぐちゃぐちゃに絡んだ黒い毛糸をつっかからせっぱなしだし、たくさんの大きな失敗をくり返しているし、悔い改めるスピードに新しい罪を犯すスピードが追いつかないクリスチャンです。
でも、絵本の『とこかえっこ!ねずみくんのチョッキ』みたいに霊をとりかえっこしようとは決して思いません。
情けなさすぎて、ちらっと、ああもう死にたいとか思う瞬間もあった気がするけど、でもクリスチャンとしてでなければ、もう生きる価値なんてどこにないのです。
アーメン