ヨセフは彼らに言った。
「恐れることはありません。
どうして私が神の代わりでしょうか。
創世記50:19
未練たらしく、創世記の最後のあたりを、しつこくくり返し読んでいました。
そして、再出発をする決心を新たにしています。
創世記の最後の5章が大好きです。
年老いた愛する父の代わりに同じ母の子、弟ベニヤミンにどんなことをしてでも会おうとするヨセフの最後のせっぱつまった言葉や涙に、がんばったけど、がんばりぬいたけど、本当は淋しくて、苦しかった、ヨセフが見えてきます。
本当は淋しい時も、苦しい時もあったけど、でも、主がやりなさいって言うから、なんだかよくわからないけど、でもとにかくやったって感じが、私は大好き。
ここを読んでいて思い出した、C.S.ルイスがどこかに書いていた文章があります。
単純な悪から複雑というか、複合的な善をつくるのが神なのだというような意味の言葉だったと思う。
個人的な災い転じて、人類的な福となるというか。
個人的な災い転じて、人類的な福となるというか。
人がどう行動しようとも、神はその目的を実現されることは確かということだけど、あなたはどう神に仕えるのかという、彼独特の皮肉を含んだ問いかけでした。
それは、ヨセフのように仕えるか、10人の兄たちのように仕えるかという意味だったのだなって、今朝、ここを読んでいて思いました。
正直に言うと、私は、ヨセフのようにでもなく、10人の兄たちのようにでもなく、ヨセフの弟のベニヤミンのように生きたい。
でも、どうも、私の人生はそうは問屋が下ろさないようです。
あなたがたは、私に悪を計りましたが、
神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。
それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。
ですから、もう恐れることはありません。
創世記50:20,21