Thursday, May 22, 2014

レビ記を読みながら

あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。
わたしが聖であるから。
レビ記11:44
心の中に、ある心配ごとがあって、それが、時々、ぴょこんと顔を出します。
いつもは忘れているのに、誰かに無視されていると感じる時や、嫌われてしまったのかもしれないと感じる時、そういえば・・・って思うことがあるのです。
出エジプト記に、主は憐み深く、情け深い神、怒るにおそく、恵みとまことに富み、とありました。
全くアーメンと思うので、私の心配は取り越し苦労と思いたいです。
もし、例えば、今となってはどうすることもできない私の失敗、私の能力では気づくことのできなかった私の間違いが、誰かを傷つけていたとしても、(きっと山のようにあるはず)ごめんなさいと言うチャンスの扉が開かないなら、扉の前で悲しく思い続けるのはやめたいと思う。
自信はないけれど。
レビ記の時代に生きていなくてよかったって、しみじみ思う。
聖い神と交わるために定められたたくさんの約束ごとは、私にはきっと守れないばかりではなく、聖くない自分を見つめ続ける挫折感と共に、一生をかけるチャレンジ、重荷となった気がします。
聖められるって、自分を忘れること、聖められるって、夢中で前を向いて生きることにもかかわらず。
幸い、イエス・キリストの十字架の後に生きる私には、彼という血と、彼という贖いで、自分の汚れを見つめ続ける必要はないってことに、とても感謝をしています。
でも、時々、見つめてしまうの。
そして、目がそこにはりついてしまうのです。
こまった。こまった。