わたしを呼べ。
そうすれば、わたしは、あなたに答え、
あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。
エレミア書33:3
全宇宙の創造主が、自分の注意を引こうとしているのを感じたことがありますか?注意を払うのも無視するのも私たちの自由ですが、この洞察―物事の見極め―はまやかしではなく、私たちを危険から守ろうとしているのです。
朝、目覚めたときに、問題の奇跡的な解決策や、素晴らしいアイディアが浮かんだ経験をしたことがあるなら、心に聞くことがどれほど有益かご存じのことでしょう。
神様に導きを求め、語りかけを期待し、その声に耳を傾ける習慣を身につけたら、このような経験が一日中続くかもしれません。
大きな鍵がここにあります。
神様の声は、常に論理に勝るべきなのです。
アインシュタインは「解決策がシンプルなときは、神様が応えてくださっているのだと知りなさい」と言いました。
時々、私たちは必要以上にがんばりすぎているのではないかと思うことがあります。
答えはそこにあり、解決策は手の届く範囲にあり、守りも得られます。
助けは、あなたが想像するよりもずっと近くにあるのです。
私の知る中で最も驚くべき現実は、聖霊がいつも私たちに気を配り、いやし、慰め、また、教えてくれていることです。
その温かく優しい、見えない手は、常に私たちを助け、支え、守ろうとしているのです。
どうしたら聖霊の助けが得られるでしょうか。
答えは簡単です。
お願いすればよいのです。
天の導きが必要なときは、答えてもらえると信じ、助けを呼んでください。
私たちの心の奥には、常に私たちに語りかける、細いかすかな声があります。
それは直感的であり、論理や思慮分別、分析的思考などを超越したものです。
疑いや抑制、恐れや了見の狭さなどにとらわれない、私たちの知覚の一部なのです。
スー・オーガスティン
私が、スー・オーガスティンのこの本の文章の中で一番好きなのが、今日のこの箇所です。
実は私は、夫と結婚する前に、数えるのもはずかしいほどの婚約指輪をもらいました。
最初のはなんと18歳の時です。
子ども同士のおままごとみたいな、約束だったけど、どの約束も結局果たされず、私は結婚しませんでした。
土壇場でいつも、「なんかちがう」って思ってやめました。
そして、やめてよかったと、今でも思っています。
私に「なんかちがう」と思わせてくれたのは、神さまだったと信じています。
夫でなければ、このような女と20年も一緒にいるなんてできなかったことだけは、本当に確かなのです。