この衣を汚さなかった者が幾人かいる。
わたしは彼の名をわたしの父と御使いたちの前で言い表す。
黙示録 3:4,5
数えきれないほどの疑い、苦しみ、嘆きはどこから来るのか。
それは多くの信者が、自分たちの衣を罪と過失によって汚しているからである。
この地上において衣を汚さなかった者は、必ずかしこにおいても白い衣をまとって歩む。
これは、その人の価値や行いによらず、恵みによる。
C.H.スポルジョンの『朝ごとに』より
ちょっと前に読んだ、申命記の中ののろいに関する項目の中に「朝には『ああ夕方であればよいのに』と言い、夕方には『ああ朝であればよいのに』と言う」のがありました。
ここで、スポルジョンが書いている嘆きと通ずるものがあります。
ああなればこう言い、こうなればああ言う。
子どものおむつさえとれればばと言い、とれれば、ちゃんとお話ができるようになればと言う。
ちゃんとお話しができるようになれば、次の、新しい、「幸せになれない理由」が必ずある。
そうやって、一生文句を言い続けるのは、あまりもの悲しいと思う。そのみことばの先はこうです。
「あなたの心が恐る恐れと、あなたが目で見る光景とのためである。」
今日は何が見えるでしょうか。
何か聞こえるでしょうか。
それは、自分で選ぶことができます。
申命記でモーセがくり返し教えてくれました。
のろいではなく、祝福を選びなさいと。
アーメン
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