Monday, March 14, 2016

守った律法と5千の祈り

この10日ほど、私の心をしめていたのは心配。
度を過ぎた賢人への病的な心配。
こんな心配は、彼を産んだ後の3ヶ月以来です。
あの頃、すやすやとよく眠っている彼を、死んでいるのではないかと1日に何度も疑い、思いあまって揺さぶり起こしたこともありました。
マーケットのカートにカチッとカーシートをセットしたのに、、目を離したそのすきに手品のようにカーシートごとさらわれやしないかと心配で、あの子の足首を握って、片手でキャベツを選んだ私。
ガソリンスタンドで、ガソリンを入れる時も、せっかく眠っている彼をカーシートからはずして抱っこでガソリンを入れました。
まだまだあります。
フリー・ウェイを走る時は、シートベルトがほどけて、窓からあの子が飛んでいってしまう白昼夢に怯え、窓を開けることは決してなかった。
その恐ろしい強迫症は、3ヶ月のお誕生日を境にきれいに跡形もなく消えました。
先週の月曜日に運転免許試験に合格して以来、大人になってしまった彼が、私の知らない世界で知らない人と、知らない価値基準で何かを判断してどんどん間違ってゆく悪夢に苦しみました。
病的な幻想が、いつしか、心が痛いのか本当に身体がどこかが痛いのか区別ができないほどに現実的に私を苦しめ始めたその時、終わりが来ました。
あの時と同じように劇的に。あっけなく。
あれから18年、私はただ祈るだけの親ではなかった。
私は、守るべき社会のルールを彼に教えた。
いえ、守って見せた。
よく、KYとか天然とかピュアとか言われるけど、その度に?ってなるけど、でも、今、それがどれほどありがたい私の性質なのかよくわかる。
私はバカのように約束を守ることに専念し、神と神が私の上に置いた人の言葉を信じて従った。
そして、神はそんな私が育てた賢人をそれにふさわしく、これまたバカのようにルールを守る子にしてくれた。
それは最もこの世界のトラブルから遠く離れているために神と人の知恵。
そして、それは、「あの子の周り中で何が起きたとしても、それが決してあの子にだけは降りかかることがありませんように」という、超・自分中心な祈り、でも数にして5千を積んだ祈りと合わさって、今ようやく、主の平安を取り戻しました。
私は、真剣に生きていた。
一生懸命に従った。
そして、積んだわがままな祈りは5千を数えた。
だから、だいじょうぶ。
これから先どんなにことが彼に起きても、それは良いことに違いない。
天国的な価値基準の中でね。
それが、その中に生きる私と賢人、クリスチャンの定めと思う。
そう思えるようになりました。
アーメン

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