Thursday, January 28, 2016

The ”WHY” Questions

さばいてはいけません。
そうすれば、自分もさばかれません。
人を罪に定めてはいけません。
そうすれば、自分も罪に定められません。
ルカ6:37
ダビデは、生まれたばかりのわが子が死にそうなのを見て、食事もせず、地に伏して、祈り続けました。
そして、7日めに子どもが死んだのを悟り、起き上がって、顔を洗い、着替え、食事をしました。
万全を尽くした後の結果について、あれこれ、思い悩んで時間を無駄にしてはいけないということです。
私たちには、みな、「理解できない事柄」というファイルを持つべきです。
そして、「なぜ」という名の、答えのないないドキュメントはこのファイルに放り込んで、先に進むのです。
The Best Life Now より
この文章の下にこんなことを書いては元も子もないかもしれなけど、ダビデは、主に子どもを取られる理由がありました。
ダビデはそれを知っていました。
でも、だからこそ、人は苦しいのです。
心のどこかで、これは、自分のせいだと、黒い一滴のしずくのような自覚があるから、苦しむのが人間だと思う。
そして、たった一滴なのに、とか、誰でも同じようなことはやっているのに、とか、もっとひどいことをされたのに、とか、こうしなければ自分がやられていたんだ、とか、自分が神ならこんな不公平なことは絶対しないと思うわけです。
そこから大いなる調査と分析と研究が始まるともう大変です。
私は、「これを読んで感想を聞かせて」ともらった、ちょっと読むに耐えられない酷いモラル・ハラスメントまがいの文章のコピーが入ったファイルを持っています。
そこには3個の異なるドキュメントが入っていて、なぜ、そのようなものを保存しているかというと、問題として取り上げる機会がきた時のために、なんて思って取っているわけです。
でも、それはその機会を待ち望む、つまり、同じことがくり返されることをよしとするのと同じ行為かもしれないな。
・・・・・・・・捨てよ。友のためにも。ダビデにならって。
鎖は断ち切り、前に進むべし。
そうやって生まれたのがあの世にも美しい『詩篇』という人類へ芸術的贈り物ってわけなのだものね。

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