Saturday, November 8, 2014

「むり」っていうのをやめたとき

悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。
あなた方は祝福を受け継ぐために召されたのだからです。
Ⅰペテロ3:9
おはよう。
ベッドから降りても上手に歩けないほど、歩き方を軽く忘れちゃうほどに、たっぷりと眠りました。
全てを忘れて―歩き方すら―ぐっすり眠れる平和で幸せな夜を私にくださった神さまに感謝です。
アメリカで使われる英語にChristian Realism っていうのがあるそうです。
そうは言っても、実際、無理でしょう、右の頬を打たれて左の頬を出していては、世界の正義はどうなっちゃうのさ的現実主義のことのようです。
いくつもの戦争をくり返してきた、正義感に満ちた普通の善良なアメリカ市民の心の根底にある気持ちなのかもしれません。
天国の市民であることは日曜日の教会でのアイデンティティであって、地域や社会や国家や世界を支える人たちが現実的な葛藤の末に二重に生きることを選らぶことは自然なことと思います。
私なんて、右の頬すら出さずに、敵対を恐れて、つねに逃げる準備を怠らずに生きている卑怯者だから、絶対このこにとあれこれ言う資格などありません。
でも、今週、月曜日の朝の祈りの後に思ったんだ。
でも、神がくださった、人格という自由意志を持って、苦手な人のために祈る時、私は、神を愛する人になれる。
そして、神は、私の祈りに答えてくださる。
私を縛られた思いから解き放ち、なおかつ、関連する祝福、あるいは別の祝福をくださる。
聖書にある神の約束を、理想と思うのをやめて、つべこべ言うのをやめて、やってみる時に私の祈りに神さまの魔法のような現実の粉がふりかけられる。

「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、
くちびるを閉ざして偽りを語らず、
悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。
主の目が義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。
しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」
Ⅰペテロ3:10~12