Saturday, May 19, 2018

民数記 10章

契約の箱が出発するときには、
モーセはこう言っていた。
「主よ。立ち上がってください。
あなたの敵は散らされ、
あなたを憎む者は、
御前から逃げ去りますように。」
またそれがとどまるときに、彼は言っていた。
「主よ。お帰りください。」
イスラエルの幾千万の民のもとに。」
民数記 10:35
神さまが共にいないのならば、何もしないかのような、モーセの旅。
私の上にも主の雲があり、私を導いている。
昨日、お隣のクラスの先生が、1週間の片付けをしながら、「ここに導かれてきたと思う」と話し始めました。
私たちは、異教の異郷でも共に働いてきました。
彼女の話を聞きながら、そこでは、夫いない人の、赤ちゃんの髪や目の色まで選べる人工的妊娠や、同性婚の話題が、声をひそめるわけでもなく、自由の国アメリカ市民の普通の生き方的に会話されていたことを思い出しました。
モーセは、さまざまな戒めに縛られて不自由で重たい気もちで旅をしていただろうか。
決してそうではなかったと思う。
うまくいいあらわせないけど、信仰というのは贈り物だし、臨在とはプレゼントだから、知っている人が知らない人の中で、知らないかのように生きることは、未来への期待や希望がなければ、意味のない苦しみに過ぎないと思う。
私は、あそこを自分の居場所のように思ったことはなかった。
ずっと、そう書いてきた。
旅って、そうでしょ。
だから楽しかった。
彼女も楽しそうだった。
そして、実は、たぶん今も、私たちは旅の途中なのです。
主の雲だけが行き先を知っている旅。