Friday, October 5, 2018

詩編 28章

ほむべきかな。主。
まことに主は私の願いの声を聞かれた。
主は私の力、私の盾。
私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。
それゆえ私の心はこおどりして喜び、
私は歌をもって、主に感謝しよう。
主は、彼らの力。
主は、その油そそがれた者の、救いのとりで。
詩編 29:6~8
自分で自分を守らなくても良いのは、クリスチャンの大きなベネフィットのひとつです。
ベネフィットの中ではそれほど特別で重大なものではないぐらい、ふつーに。
そしてそれが、つまり、自分で自分を守らないこと、主の守りの中で生きることが、段々といつしか、呼吸をするみたいな無意識の生き方になってくるため、そうでない中で必死に生きる人の気持ちがわからなくなってくるのも、これまた、事実。
山あり谷あり・・・
何が、一体、どうして、どんな理由で・・・、という疑問に対する答えはない、というのが神さまの、私の祈りに対するこのことのアンサーです。
以下、昨日書きかけて、途中でやめた文章です。
木曜日が、狐につままれたような気分で終わりました。
ここひと月ほど祈ってきたことに、とりあえず、人にできる解決策は何もなし、ということが判明。
でも、それが神さまの答えだと思えた。
それは、天災のように予測できず、問題を未然に防ぐための過去の傾向の分析は全く無意味という結論。
とほほ&あはは。
これに、とほほ&あははというタイトルをつけてアップしようとして、やめたのは、それに対する私の気もちが、あまりパッとしなかったから。しっくりこなかった。
でも、今朝、このみことばを読んで、答えはなくてもいいから、心配せずに進もうと思えた。
私の中で、自分を守りたい葛藤が芽生えてしまうよりよっぽどいい。
応戦したい葛藤と戦うよりよっぽどいい。
知らなくていい。主が知っておられるから。