Sunday, October 7, 2018

恵の新しい数学

おはよう!
聖なる安息の日曜日をおめでとう。神さま、ありがとう。
再び、フィリップの文章について。
「恵みの新しい数学」という章に書かれた、福音書にある経済学的矛盾を解き明かした箇所です。
つまり、1匹の羊を探しに99匹の羊を野に置く羊飼いや、イエスの足に高価な香油を注ぐマリアが褒められてしまったり、貧しい女の2枚の硬貨の献金がそれ以上の献金よりもたくさんだったとことになったり、ぶどう園で朝から働いた人も最後の1時間にすべり込んで来て働いた人も同じ賃金を受けるという矛盾。
以下、フィリップの文章です。
私は演技を(芝居・アマデウス)見ながら、長いあいだ自分が悩んできた問題の裏面を見ていることに気づいた。
はなが自分で作った朝ごはん
アボガドトースト
その芝居は聖書のヨブ記にあるのと同じ疑問を、ただ裏返しに提示していた。
ヨブ記の記者は、神はなぜ地上で最も義なる男を「罰する」のだろうと考え込んだ。
「アマデウス」の作者は、神はなぜ、神からの贈り物を受けるに値しない悪ガキなんぞに「報いる」のだろうと考え込んだ。
痛みの問題は、恵みの引き起こすひんしゅくと軸を一にしている。
義務を果たすエサウより、陰謀を企てるヤコブを神はなぜ選ぶのか。
なぜサムソンというモーツァルト的不良に超自然的な強い力を授けるのか。
なぜ小さい羊飼いの少年をイスラエルの王に仕立てるのか。
全く、これら旧約聖書のどの話をとっても恵の引き起すひんしゅくが表面下で重々しい音をたてており、最終的にはイエスのたとえ話において劇的な大変動を起こして噴出し、モラルの地形を作り変えるのである。
イエスの話は経済学的には意味をなさないが、それこそ彼のねらいだったのである。
私たちいはそれを(恵み)を神からの贈り物として受け取るのであって、苦労して得ようと努めた挙げ句に得るのではないのである。
いかがでしょうか。
私は、わかったつもりで、それでもなお、自分の努力、自分の痛み、自分の犠牲、自分からひねり出す何かによって神の前に義となろうとする自分を突きつけられたような気もちです。
でも、決して惨めではありません。
だって、このメッセージが、神さまの恵みそのものであるのだから!