もし私たちが、
神と交わりがあると言っていながら、
しかもやみの中を歩んでいるなら、
私たちは偽りを言っているのであって、
真理を行ってはいません。
Ⅰヨハネ Ⅰ:6
信仰によってキリストに結び合わされた時、私たちはキリストと完全な交わりに入る。
その時、主と私たちの関心事が共通になる。
私たちはキリストの愛において主と交わる。
キリストが愛される者を、私たちもまた愛する。
主は聖徒を愛し、また滅びようとするあわれな人類を愛して、この地上の荒野が主の花園に変わることを求められる。
私たちもそうである。
招かれるようなことがあって、行ったなら、
末席に着きなさい。
そうしたら、
あなたを招いた人が来て、
「どうぞもっと上席にお進みください。」
と言うでしょう。
ルカ14:10
神の人は神性の光の中を歩み、ケルビムのように主イエスの血潮と義の二つの翼で顔をおおい、敬虔にへりくだって御座に近づく。
こうしてそこに愛と善とあわれみに満ちた神を見いだし、絶対的な神性をもたれるべき恐れるべき方としてよりも、むしろ彼と契約を結ばれた親しい方として神を認めるのである。
C.H.スポルジョン 「朝ごとに」より
上のみことばは、11月23日、ちょうど一月前に開いたみことばでした。
間違えてそこを開き、でもそのまま、そこの1章を2回読み、そして12月23日の箇所を開き直して、その一章を2度読みました。
このふたつのみことばが、セットで今朝の私に与えられたことを、心から感謝します。
「神と交わりがある」と言うことは、どういうことか、それは、本来もしかしたら、末席にいるのかもしれない人を上座に座ってもらうことなのかもしれない、主は、私にそう教えようとしているのではないかと考えてみています。
水曜日に、プールで「娘よ」という御声が聞こえた(気がした)、と書きました。
私は、ノンクリスチャンのコ・ワーカーにどうやって、キリストの御名を傷つけずに、自分の意志を通すかという葛藤の中にいました。
私だって、お客さんには一番景色の良い席、座り心地のよい椅子をすすめるもの。
はなのお友だちが来たら、大人用のアイスクリームの器を使うし、かわいいナプキンも出してあげます。
はながひとりで食べる時には、いつものふくろうの絵柄のプラスチックのおわんを使うのにね。