さて、祭りの終りの大いなる日に、
イエスは立って、大声で言われた。
「だれでも渇いているなら、
わたしのものとに来て飲みなさい。」
わたしを信じる者は、
聖書が言っているとおりに、
その人の心の奥底から、
生ける水の川が流れ出るようになる。」
ヨハネ 7:37
主イエスは全き忍耐を保ち、祭りの終りの日に至るまでユダヤ人の心に訴えられた。
同じようにこの1年の最後の日においても、主は私たちの心に訴えられ、私たちに恵みを与えようとして待っておられるのである。
主は単に声を大にされたというのではなく、優しく語りかけられたのである。
主は私たちに和解を訴えておられる。
このような呼びかけに対し、心を動かさないででいられるだろうか。
備えは十二分になされている。
人がたましいの渇きをいやすのに必要なものはすべて備えられている。
渇きは激しい。
しかし、イエスはそれを取り去ることができる。
それが、貪欲、野心、快楽、知識、安楽などの渇きであろうと、渇いている者はすべて招かれているのである。
主イエスが招かれているのは、人のうちに美徳があるからではない。
主は自由に、だれかれの区別なく招かれるのである。
イエスは希望の泉である。
C.H.スポルジョン 「朝ごとに」より
どんな渇きであっても、とスポルジョンは言う。
本当にそうだろうか。
そうだと思う。
それが、きっかけなのだと思う。