Thursday, December 28, 2017

朝ごとに 12・28

いま私が、この世に生きているのは、
私を愛し私のためにご自身をお捨てになった
神の御子を信じる信仰によっているのです。
ガラテヤ 2:20
かつてあわれみに富む主が通られた時、倒れて死に瀕している私たちをご覧になって、まず第一に「生きなさい」と言われた。
なぜなら、いのちは霊の世界において絶対に欠くことのできないものの一つであって、いのちが与えられていなければ、人が神の国のもろもろの祝福にあずかることができないからである。
聖徒たちが生かされる瞬間に、恵みによって与えられるいのちは、キリストのいのちにほかならない。
それは幹から流れる樹液のように、枝である私たちに流れ込み、私たちのたましいとイエスとの間に生きた結合をもたらす。
たましいが明確に自己とキリストとの一致を見ることができる時、両者の脈は共にうち、同一の血液がそれぞれの血管を流れるのを感じる。
C.H. スポルジョン 「朝ごとに」より
いつもながら、堅く難解なスポルジョンの文章だけど、うれしいのは、この「同一の血液」という表現。
覚えている?
クリスマス前に、ショッピングモールを歩くという、絵に描いたようなこの世界の喧騒に送りこまれたのに、何も影響を受けない気がしたと書いたこと。
血液型違うから、輸血できないかのように、関わりがなく感じて、どう表現していいのか、わからないので、そう書いてみたのだけど・・・。
大すき、スポルジョン。
そうだそうだ、見た目はでは判断できないけど、とってもとっても良く似ているけど、なんか違う、なんか嘘臭い、ただの真似だ、と感じるのは、やっぱ、霊だったのよね。
私の新しい(もう半年たつけど)ボスは大の絵本嫌い。
お隣のクラスの先生は、聖書に書いていないことを書いている聖書物語を見つけるのがおとくい。
私、おもしろければ、なんでもごちゃごちゃにして読んじゃって、わりと平気。
「あはは、これ、もちろん嘘のお話だからね~」と軽いフォローで、次の絵本を無造作に開く。
主の霊はひとつと言うけれど、人の内でさまざまに働くのも、主の霊です。