パロは夢を見た。
見ると、彼はナイルのほとりに立っていた。
ナイルから、つやつやした、肉づきの良い七頭の雌牛が上がって来て、葦の中で草を食んでいた。
するとまた、そのあとを追ってほかの醜いやせ細った七頭の雌牛がナイルから上がって来て、その川岸にいる雌牛のそばに立った。
そして醜いやせ細った雌牛が、つやつやした、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くした。
そのとき、パロは目がさめた。
創世記41:1~4
スポルジョンは今朝、私に、こう言います。
「私の怠慢の日々は、私が情熱を傾けて努力し達成したすべてのものを無残に破壊し、冷淡の時は、私のすべての熱心を凍らせ、時々の邪悪な思いは、聖い生活に進んでいた私を押し戻してしまった。」
これを聞いた私は、彼が偉大なる説教者であると同時に、素晴らしい文学者でもあることに感動したりするのです。
そして、平凡な私は、「それって、夏の日焼けと同じね、どんなに日頃、気をつけて、日焼け止めを丁寧につけて、お帽子をかぶっていても、なりふりかまわずがんばった運動会一発で、過去の努力が水の泡。」と、彼の霊的、文学的するどい指摘を台無しにしていまうわけです。
スポルジョンはさらにこう続けます。
「もし天より新しい賜物を求めないならば、私の倉にある古い穀物は、私のたましいの怒り狂う飢きんによって、たちまち失われる。」
こう聞いた私は、昔ある牧師が言っていた言葉を思い出しました。
クリスチャンはいつも成長しているか、後退しているかどちらかだと。
ハミング・バードのように、空中で羽ばたきながら同じ場所に飛んでいるイメージがじゃまをして、どうしても、それを信じることができなかったけど、今朝、やっとそれがどういうことなのか、わかった気がします。
主よ、どうか私を、日々、天国の丘へと近づけてください。
毎朝、あなたの牧場で食み、あなたの泉で飲ませてください。
夜になれば、あなたの陰で、あなたの守りの中で休ませてください。
私を天国の丘に向って、あなたを歌いながら、あなただけを恐れながら、
てくてくと幸せに歩む者としてください。
アーメン
てくてくと幸せに歩む者としてください。
アーメン