Tuesday, February 9, 2016

私が教会でピアノを弾くわけ

朝、サンペドロとロング・ビーチの間に架かる大きな橋を渡りながら、電話でゆりかさんとおしゃべりしました。
つぎはぎな気もち
1週間に1回以上はそうやっておしゃべりしてる私たち。
ほんのわずかな時間なのに、いつも、いきなり、かなり濃い話しをしている私たち。
今朝は、彼女からかけてくれたのに、なぜか私の方がたくさんしゃべっていました。
私がピアノでやるように訓練されてきたことに始まり、締めくくりは私が将来ピアノでやりたいことへと発展。
これをわずが15分ぐらいの間に簡潔にしゃべり、すっきりした気分で電話を切りました。
友だちって、いいよね。
余計なあいさついらないし、言いたいことだけ言って何も気にせずに、気もちよく1日を始められるんだもの。
友だちとしゃべてひとつに
ゆりかさんに話しながら気づいたのだけど、私が、神さまに訓練されてきたのは、自分で思うほどには、いろんな会衆にあたる経験や、和声学的知識や、具体的な即興力ではないのよね。
それは、大切な手段であって、なんのための経験かっていうと1にも2にも会衆の気持ちを知ること。
なんのための和声学的知識かっていうと、その気もちにハーモニーで沿うこと。
なんのための即興力かっていうと、彼らの声に新鮮なメロディー応えるため。
それには、五感を駆使して、会衆の様子知り、沿い、応え方を具体的な音にする必要があるわけで、全てはそこに向かうための訓練なのだなっと思いました。
チームを含めた、会衆の微妙な温まり具合を読むこと。
会衆がどんなものをひきずって会堂に入ってこようとも、集まる全員が、主の言葉の前に静まることができるように、整った人から順番に、後ろから追いついて来る人を待つように歌いあげること。
揃ったところで、主にGOを出すこと。
盛大に。
これが私の賛美の奏楽のゴールなのです。
アーメン

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