私たちは、救われる人々の中でも、
滅びる人々の中でも、
神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
ある人たちにとっては、
死から出て死に至らせるかおりであり、
ある人たちにとっては、
いのちから出ていのちに至らせるかおりです。
このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。
私たちは、多くの人のように、
神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、
真心から、神によって、神の御前で
キリストにあって語るのです。
2コリント 2:15~17
なんだか居心地の悪い、なんとも収まり所のない妙なプレシャーのようなものを感じて過ごした週の後半でした。
幼稚園のイースター音楽発表会のための準備へのプレッシャーだとも思えない、今まで、感じたことのない変な気もちでしした。
(アドレナリンが分泌された緊急っぽいプレッシャーならかなり慣れているし、どちらかというとその方が普通の時よりも幸福感を強く感じる特異体質な私)
昨日から読み始めた、第2コリント人への手紙をもう一度、1章から読み始め、そして、今朝、ああ、そういうことか、気づいた。
今日の音楽発表会のプログラムの中に、「イースターのお話」というのがあるのです。
それに、大きな重荷を感じているのです。
この仕事が回ってきた時、担当者に用いられてきた過去の原稿を読ませてもらおうと思いました。
でも、それがかなわなかったので、保護者を前に、子どもたちがどのようにキリストの十字架を受けとめているかを証することにしました。
証は、スラスラと20分ぐらいで完成しました。
それでも、まだ、私の文章のあちこちに適切でない表現がチラチラと見える気がしていました。
そしたら、昨日の夕方、もう幼稚園が閉まるという帰り際に、ものすごい偶然で、過去の原稿が私の手に落ちてきたのです。
これから、もう一度、じっくりとその両方を読みかなら、お祈りします。