Saturday, April 20, 2019

ピリピ人への手紙 2章

それは、あなたがたが、
非難されるところのない純真な者となり、
また、曲がった邪悪な世代の中にあって
傷のない神の子どもとなり、
いのちのことばをしっかり握って、
彼らの間で世の光として輝くためです。
ピリピ 2:15
毎朝のプールでの祈りの最初に、キリストを感謝します。
そして、キリストの十字架に感謝します。
キリストを私に与えた天の父なる神と、私のために十字架にかかってくれたイエスに感謝します。
それから、十字架で流された血潮と罪の赦しに感謝し、そして、その次に、キリストの刺し傷に感謝します。
感謝は信仰という贈り物と、それと同時に与えられた聖霊へと続くのだけど、今朝は刺し傷に感謝するということについて書いてみようと思います。
私は、十字架でのキリストの刺し傷によって過去に受けた全ての傷から癒されました。
昨日の写真とちょっと違います
どこが違うでしょう〜
それは、私が信じようが疑おうがそんなこととは関係のない事実です。
過去に起きたどんな悲しみも、恥も、今の私に、影響を与えることはできません。
私の一生懸命は、時々、いえ、かなり頻繁に滑稽だし、私の書く文章は公の手紙としては、ちょっと独特です。
つっこみどころの山盛りでおかしなクリスチャンです。
笑われること、ニヤニヤされること、目配せされること、踏みにじられること、そして無視されること。
締めくくりは、よく耐えましたというご褒美なのか休戦の印なのかは不明だけど、でもとにかく大変な親切と善意。
パウロの足元にも及ばないとは思うけど、私にとってはとても苦しいことをぐるぐると経験しています。終わった感は全くありません。
これを過去の出来事として手放して、完全な癒しを受けるための方法は一つしかないのだと思う。
次に備えて、笑われなくなるのではなく、笑われても平気になること。
神にとって、非難されるところのない純真な者となりたい。
神にとって、傷のない神の子になりたい。
いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で、世の光として神の目に輝きたい。
それでいい。それがいい。
アーメン