Friday, January 24, 2014

長距離通勤の意義

金曜日の夜です。
今週は月曜日がお休みだったにもかかわらず、長くって、重くって、苦しい一週間でした。
木曜日の夕方、ひとりで賭けをしました。
小さな時からよくやる賭けで、私はこんな賭けで人生の大きな岐路を決めてきました。
そしてそれでおおむねうまくいっているから、こんないい大人になってもまだやっています。
それはこんなふう。
もしも、もち米の袋が夕方6時に、まだ幼稚園にあったら、持って帰って、おうちで研いで、12時間ほど水に浸して、翌朝持ってこよう。
そして、ここでの仕事は今学年で終わりにしよう。
もしなかったら、持って帰ってくれた人に感謝して、もうしばらく、ここにいさせてもらおうという賭け。
その賭けの答えは、6月までのお楽しみ。
仕事にどこまでコミットメントできるかは、妻の私、母の私、働く私、教会員の私、ただの私が集まって相談して決めました。
平たくと言うと、幼稚園の大きな赤いボールとお米の袋をうちの小さなキッチンに運んでしまうと、片道1時間半もかけて気もちを切り替えるために遠くまで帰ってきた意味がなくなっちゃうのです。
全くややこしい私です。
でも、仕方がない。
これが私だから。
長距離通勤を支えていたものはガソリンでも時間でもなく、ただただその意義、理由であったこと、遠くの幼稚園だから、こんなに何もかも忘れて、ぐぐぐ~っと集中して仕事を楽しめていたこを知りました。