おはよう。
土曜日です。
一杯眠って体も心もすっきりしていて、なんだかた書きたい気持ちがむくむくもぞももぞ、頭の中で動いています。
昨日から、ずっと考えていること。
どうしたら、やさしい文章、人の心にやさしくふれることのできる文章が書けるようになるのだろう。
どうしたら、まっすぐで正直な文章、誰のことも傷つけることなく、自分の気持ちや考えを言葉に置き換えることができるだろうって。
自分の心の中を、じっと目をこらして見つめます。
私が書こうとしていることの、本当の目的はなんだろう。
神さまはそれを好いてくれるかな。
自分の頭の中で組み立てられてゆく言葉を、じっくりと検討します。
この言葉はどこから生まれて、どこに行こうとしているのだろう。
そこまで考えたところで、気づいたことがひとつ。
危険な文章で読む人の心を汚す可能性について、細心の注意を払うのは、実は自分が傷つきたくないからなのでした。
自分が傷つくことを心配していると、私の文章は、宿題の日記のように、意味はわかるけど意味のないものになります。
それで、夕べ書いた記事を削除しました。
私のお姫さまのことを、昨日、元の担任の先生が、「いろんなことを理解できるようになりましたね」と言いました。
私は、彼女の理解はたぶん最初から年齢相応だったのだと最近思うようになっていたけど、ただ「そうですね」とだけ答えました。
彼女の問題は、果たして彼女がどれほど世界から理解されているかということにあるのだと、私は確信しているのです。
私も同じです。
どれほどのことを見て、聞いて、体験して、どれほどのことが自分の内で起きたとしても、それを書くからには、理解されなければ全く意味がないのです。