霊が私を持ち上げ、私を捕らえたので、
私は憤って、苦々しい思いで出て行った。
しかし、主の御手が強く私の上にのしかかっていた。
エゼキエル 3:14
虚しい悲しみで一杯だったエレミア書とその追悼のような哀歌を、ざざっと読み終え、今日からエゼキエル。
これまた、しんどい書物です。
エレミアが悲しみの人なら、私はエゼキエルを苦しみの人と呼んでしまおうか。
まるでそれを、最初から知っていたような、このエゼキエルのリアクション「私は憤って、苦々しい思いで出て行った」「しかし」そう、しかし。
「主の御手が強く私の上にのしかかっていた」。
主の霊が共にあることが、幸せの全てなのだけど、霊の意志に圧倒されて、セーターの首のところをつかまれて、持ち上げられている気分の時が、まさにそう。
それは嫌だな・・・とか、きっと上手にできないと思う・・・とか、どうやったって非難されるんだろうな・・・とか。
でも、霊の強い意志というか決定事項に、「はいはいはいはい行きます、今行きますとも」と口を尖らせ、ブツブツ言いながら準備している感じに似ている気がするのよね。
ごめんね、エゼキエル、全然理解していないかもしれなくて。
★写真の中の左の小さな箱ははながかつて、ベスト・フレンドと思っていた子のために用意したギフト。
7年生になって、1週間で学校を辞めてしまいました。
以来、連絡が途絶えています。