Friday, April 2, 2021

自覚という贈り物


そこでピラトは、そのとき、イエスを、
十字架につけるために彼らに引き渡した。
ヨハネ 19:16

「尊き主が引き出されたもうのを見て、私たちは何を学ぶべきであろうか。
愛する友よ、あなたはイエスがあなたの罪を持ち去られたことを確信するか。
あなたが主の肩に十字架を見る時、それがあなたの罪を表すと思うか。
あなたの罪が持ち去られたかどうかを示す方法はただひとつである。
あなたは手を彼の頭に置き、あなたの罪を告白して彼にゆだねたであろうか。
そうする時、あなたの罪はキリストに転嫁され、もはやあなたの上にはない。
そして主はそれを十字架よりも重い荷として肩にになわれた。」
今朝のスポルジョンのメッセージです。

昨日読んだマタイの27章の中にも、今朝のこのヨハネの19章の中にも、神さまからの私個人への、大切なみことばの贈り物がありました。

昨日のは、マタイ27:7『彼らは相談して、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にした』ということば。
イエスを裏切り金貨30枚で売ったユダが、後悔して投げ捨てたお金の使い道です。
それは、私のお金でもあると自覚していた私は、それで、旅人のためのお墓が作られたということに、二重の悲しみと喜びを感じました。
そして、今朝は、ヨハネ19:11『あなたはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです』。
これは、イエスと無関係な人がイエスに対して何をしようとも、愛された私が犯す罪とは比べようもない、ということなのだと思う。

他の人、他のこと、他の信仰、他の行いは、こと、このことに関してはどうでもよい。
自分の過去の信仰も失敗も。
ただ、私が主に対して、今、この瞬間、主の前に全てを言い表していて、何ひとつ隠し事なく、今、この瞬間、潔白であるなら、それで良いと思う。
私は、自分の将来を自分で補償しない。
弱くて悲しい罪人は、次の瞬間、何をしでかすかわからないから。

 

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