Wednesday, June 23, 2021

自分に死んで、霊に生きるということ


一粒の麦がもし地に落ちなければ、
それは一つのままです。
しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
ヨハネ 12:24

今朝は、スポルジョンではなく、えりさんが毎朝送ってくれるホープチャペルのメッセージからです。
人生の目的が自分に向かっている時、人生は虚しい。
人生の目的が人のため、神の栄光のために向く時、私たちの殻は破られ、新しいいのちの残せると、そんな内容のメッセージでした。
私は、このみことばをそんな風に読んだことはなかったのでとっても嬉しかった。
誰かのために身を捧げる、命を与えるなんて、聖なる選ばれた人の尊い生き方だと思っていました。
でも、そうじゃない。
イエスさまは私にもそんな尊さを求めてくださっている。
思うように物事が進まないとイライラしたり心配になったりするのは、私の内なる霊と肉なる私の調和が壊れているからなのでした。
母の安心、母の平安、母の幸福を願う前に、私は私の安心、私の平安、私の幸福を願ってはいなかっただろうか。
そんな風に考えてみています。
父の時、全てが守られ、全てが導かれ、全てが主の備えの中でより良い父の人生の最後の伴走を走り通せたのは、自分のためなんかじゃなかったはず。
いえ、父の願いと私の願いと神の願いがぴったりと一致していたと言ってもいいかもしれない。
そうならなくてはならないのだと思う。
そこに神さまのこたえがあるのだと思う。

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