Sunday, April 28, 2013

あの日のこと

今朝、悪断21を書いていて、日本語学校を辞めたときの気持ちについてそろそろ書けるかなっと思えたので、どんな文章になるのかわからないけど書き始めることにしました。
一番つらかったのは、賢人とはながそこを大すきだったことでした。
今でも、耳の中にある声があります。
「行きたかったな、遠足。」
大きくなった賢人を3歳ぐらいに戻したいと何度も何度も夢みてきた私。
戻してもらえるなら、1日1000ドル払って10日ほど共にすごし、残りの人生は借金の返済でもいいとさえ思っていました。
絶対に適えられないと思っていたのに、それは、その夢が適えれた日でした。
あの子の声はまるで3歳で、そして私を木っ端微塵に打ち砕きました。
私たちは、レストランの駐車場にいて、私は、涙が目からあふれて、声を出すこともできず、本当に悲しかった。
親として、今まで何度も何度も失敗をくり返してきたくせに、そんな一言に完全に打ちのめされて、私ほど愚かな親は、じゃなくて、人間は私の周りにはいないと思いました。
私の判断は間違っていたのか。
間違っていました。
私は、神さまを信じていませんでした。
私もエリの前で神に仕えたサムエルやサウルで前に神に仕えたダビデのようになれたかもしれない。
いいえ、賢人とはなが愛した日本語学校は、本当に素晴らしい学校だった。
確かに週日、往復2時間半の遠距離通勤プラス、土曜日の日本語学校、準備に週5時間はタフを通り越したクレイジーさでした。
でも、それは私が望んで決めた決断で、神さまは、しっかりと私をサポートしてくださっていた。
辞めた原因は、私のプライドが学校の前で神さまに従えなかったことです。
私は、私の感情、私の欲望、私の夢に仕えるあまり、疲れ果て、そして燃え尽きてしまいました。
がんばればがんばるほど、気分が悪くなっていきました。
アーウィン・ラッツァーが言うとうり、感情に従えば、従うほど、気分は悪くなり、その悪い気分を一時的にでもいいから麻痺させて、翌日に備え休むために、ビールを手に楽しいふりをしていたわけです。
ローマの8:28は真実です。
私は、働いて、働いて、自分がどこに向って何をしようとしているのかさえ、わからなくなるほどに働いていた頃も、その挙句に感情を爆発させた時も、自分を知って心から自分を嘆いたときも、主はすべて、本当にすべてそれを益としてくださっていました。
私は、将来おそらく、もう一度、何のバックグランドもない子どもに外国語としての日本語を教えるというチャレンジを与えられると思います。
神さまと私は、私にそれができることを知ってしまったのです。
誰もやらないやり方でそれをする時が、もう一度必ずやってくると、そうなぜかはっきりと思うのです。
そして、感情の爆発によって、私は自分の限界、神さまの無限を思い知りました。
疑いようもなく、私は高慢な愚か者で、「何でそんなことがわからないの?」と思っていた人々に赦され、憐れまれて生きのびることができました。
あの失敗によって、私は自分を変える決心ができたのです。
神を愛する人々、すなわち、
神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを益としてくださることを、私たちは知っています。
ローマ8:28