Wednesday, April 17, 2013

悪断⑩~視野を広げるⅡ

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、
さまざまな情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
ガラテヤ5:24
「生活を点検し、改革を要する分野を書きとめる。自分の根本的な態度を見定めるのに少し時間をかけてみよう。ほんとうに気になっているのは何だろう。本当に望んでいるのは何だろう。」
「内心の戦いついて熟考した後で、自分自身と問題を完全にささげる。」
「これは自分に問題を支配する権利、恨みを抱く権利があるとは考えずに、ゆだね切ることを意味する。自分の課題に取り組みよう神が要求なさると承知したうえで、ゆだねなさい。」
「神はあなたにできないことを要求なさらないと確信しなさい。何を求められたとしても、神はそれをなすべき力を与えてくださる。」
「橋が流されてしまっても、小川は、渡ることができるかもしれない。思いきって飛べば越えられる。神に自分をささげるときもこれと同じである。」
「橋が流れてしまったとき、いい加減なゆだね方だった生活に戻ることなどはもう考えずに、思い切って一気に飛び越えるのだ。」
「これから何回もささげ直さなければならないかもしれないが、そうだとしても、神が備えられた道を歩き続けられるように、神が共にいてくださることを信じて、できるかぎり明確に、具体的に、決定的に自分をささげよう。」
アーウィン・ラッツァー
私の全てをご存じでいてくださっている天の神さま、
私の中の戦いを全てを見せてください。
自分ではそれが何だかわかりません。
でも、きっと何かがあるはずです。
私はあなたの中に生きるように造られた者だから、
ここにどしても、満足することができません。
だからそれがわかるのです。
アーメン
アーウィン・ラッツァーのいう壊れた橋を経験するのは絶対にいやだ。
私は、ずっとずっとそう祈ってきた。
「我らを試みに合わせず」と、「わざわいから遠ざけて」と。
でも、神さまは、いい加減に気づきなさいと、橋を壊して私が跳ぶ決心ができるようになさるかもしれないと思う。
私は、何かが気になっているだろうか?
私の心は、何か、誰かによって乱されているだろうか?
渡りきらなくちゃ。橋が壊れる前に。
私は背中を押されたり、手をひっぱられたり、身体にふれられて、わけもわからず、無理矢理何かをさせられるがちっちゃい頃から大っきらいなのです。
しかし私には、
私たちの主イエス・キリストの十字架以外に
誇りにするものがあってはなりません。
ガラテヤ6:14