神は、キリスト・イエスを、
その血による、
また信仰による、なだめの供え物として、
公にお示しになりました。
それは、ご自身の義を現わすためです。
というのは、今まで犯されて来た罪を
神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
それは、今の時にご自身を現わすためであり、
こうして神ご自身が義であり、
また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
ローマ 3;25,26
私たちは信仰によって義と認められたため、神との平和をもっている。
良心はもはや私たちを責めず、さばきも今や罪人に不利とはならない。
記憶は過去の罪を顧みて悲しむが、来るべき罰を恐れない。
キリストが身代わりになって死なれたたましいが、一人でも地獄に落ちることはありえない。
私は自分が罪人でないから希望を持つのではない。
私は罪人であり、主が私のために死んでくださったので、希望をもつのである。
C.H. スポルジョン 「朝ごとに」より
神さまを義と認めることは、最初はとてもつらいけど、後にこのうえない喜びとなると、スポルジョンは言います。
アーメンです。
それが、信仰という目には見えない壁のあちらとこちらの違いというものなのでしょう。
この壁にさわってしまうことを葛藤と言います。(勝手な私の解釈です)
その葛藤は聖霊さまがくださる痛みだと信じています。
だから、その痛みを超えて、本当に壁を越えてしまうことのないようにしたいです。